インド映画夜話

大河のうた (Aparajito) 1956年 113分
主演 ピナキ・セーン・グプト & スマラン・ゴシャール & コルナ・バナージ
監督/脚本 サタジット・レイ
"帰れる時が来たら、帰って来るわ"




 時に、1920年のベナレス(現ウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナシー)。
 オプー(本名オポルボ・ラーイ)一家はここに住まいを見つけ、父親ホリホルが僧職の仕事を請け負うことででなんとか新しい生活を手に入れていた。しかし、程なくホリホルが病に倒れて看病虚しくそのまま他界してしまうと、オプーは母親サルバジャヤーと共に大伯父を頼ってベンガルのマンサポタ村へと引っ越していく…。

 農村で父の後を継ごうと僧侶修行を始めるオプーだったが、近所の騒がしい子供たちの姿に惹かれ、彼らが集まる学校の様子が気になって来る。
「母さん、行きたいんだ」
「どこに?」
「学校。いいところだよ」
「お金がかかるわ。なんでわかるの?」
「みんな楽しそうだもん。母さん、うちにはお金がないの?」
「……」






 ベンガル語(*1)映画界の名匠サタジット・レイの代表作「オプー3部作」第2作。

 原題は「負けざるもの」の意とか。同名タイトルの、ビブーティブーシャン・ボンドパッダエ(別名ビブーティブーシャン・バナルジー)著の小説(の前半部)の映画化作品(*2)。
 世界各地で映画祭上映・一般公開される中、日本では1970年に一般公開。2005年のタイム誌選出の最高の映画100選にも選出されている他、数々の著名人が傑作映画に本作を言及し、マーティン・スコセッシやジェームズ・アイボリーなどなどの映画監督たちも本作の影響を指摘されている。

 前作「大地の歌(Pather Panchali)」がベンガル農村の風景のダイナミズムを取り込んだ詩的映画だったのに対して、こちらは主人公オプーの成長による母親との関係性の変化、その巣立ちを描く映画。
 ヒンドゥーの聖地の1つベナレスでの多数の人々に囲まれての生活、父の死後に再び始まる農村生活、学校に通うことでその頭脳明晰さを具体的に発揮するオプーと、唯一の家族に過去の生活を投影しつつ一緒に幸せになろうとする母親…と、劇進行も本作の方が起伏に富み、人生の浮き沈みの切り取り方も劇的かつ普遍的で見やすい。

 他人に心を許すことなく警戒心の強さを見せる母親サルバジャヤーの頑なさは、前作からも引き継がれているものの、前作ほどに家庭全てのストレスを1人で抱えてる訳でもなく、後半には愛する息子とのすれ違いから来る人生の悲哀が、病の中で幸福な未来を夢想するサルバジャヤーの姿そのものに漂う悲哀ともなっていき、劇中もっとも共感を呼ぶ印象深い役柄へと変化している。
 その母親の希望をことごとく拒否して学校に通いだすオプーの、外界に開かれた視線と感覚は子供独自の美しさを発揮しつつ、まさに「親の心子知らず」を突っ走る姿は可愛く、小憎らしく、その強固な自我によって自身の人生を決定しようとする力強さをも見せつける。

 オプーの両親を演じていたのは、前作と同じカヌ・バナージとコルナ・バナージながら、オプーを演じていたのは本作が映画デビューとなるピナキ・セーン・グプト(少年期)とスマラン・ゴシャール(青年期)。詳しいデータが出てこないけど、どちらも本作の後数本の映画に出演した以外は映画界から離れたよう。前作よりも小憎らしさを見せる眼力を持つピナキ・セーン・グプト演じるオプーも、前作オプーの成長した姿として違和感ない美少年さ。どっちかと言うと、大学に行ってスマラン・ゴシャールになった時の方が変化が大きく感じるけれど、少年が青年へと成長する時の変化具合ってそんなもんかもねえ…と思えば、こちらも特に違和感もなし(*3)。

 脚本準備段階から、監督とサルバジャヤー役のコルナ・バナージの間で原作の母子の別れをどう描くのかを議論していたらしく、母の死に悲嘆にくれるオプーが一方で「家族の呪縛」からの解放による喜びをも感じていたと言う文学的描写は、観客から猛烈な拒否反応が返って来るだろうことを理解した上での描写になっているそう(*4)。
 前作で祖母と姉との別れを経験しているオプーが、本作冒頭で「死に出の地」とも呼ばれるベナレスで暮らしていると言うだけでなにやら後の展開が見えるようには感じていたけど、さらなる父の死を越えて、母と2人だけの暮らしになったオプーが子供なりの視線でさらなる外界を見つめていく率直さ、ポジティブさにその生命力の強さや次世代の持つ怖いもの知らずな精神を見るよう。

 もはや信用できる家族がオプーだけになってしまった母親の物悲しさ、孤独感は本作後半の主要モチーフ。
 前作の家族の家であっても、ベナレスの入り組んだ路地奥の集合住宅でも、親戚を頼って見つけたベンガル農村の家にあっても、サルバジャヤーの孤独と不安は常に彼女を蝕み、学業によって人生の展望を開いていくかに見える息子の将来に期待しながらも、その息子とのすれ違い、家に戻ってこようとしない家族との距離感に無力感を感じてしまう母親の姿は、一人巣立って行こうとするオプーを引き止める最後の鎖ともなる。そうであっても、やはりオプーは外界を目指さずにはいられないし、そんなオプーを誇らしく愛するサルバジャヤーの思いも否定できるものでもない。伝統と慣習を否定して、学問による知識の研鑽をこそ未来の希望としてみる物語は、その希望を信じられる次世代と、その希望を信じきれない親世代の断絶と迷い、その絆の交錯具合を観客に問いかけながら丹念に描いていくよう。
 伝統的な「知」が通用しなくなったといっても、家族の思いを否定はできない。科学的な「知」を身につけたといっても、切り捨てていく家族への未練を考えずにはいられない。それでもなお、家族の待つ家よりも外界を見続けるオプーの姿から見えるのは、強さか、まだ見ぬ希望か、子供時代との別れか…。巣立つ若鳥を待つ世界に、振り返ることのできるものはあるのか否か…。


受賞歴
1957 伊 ヴェネツィア国際映画祭 (Venice Film Festival) 金獅子(作品)賞・FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞・ニューシネマ作品賞
1958 米 San Francisco International Film Festival 金門監督賞
1959 米 National Board of Review NBR外国作品賞
1967 デンマーク Bodil Awards 非ヨーロッパ映画作品賞


「大河のうた」を一言で斬る!
・母親に打たれることは、そこまで衝撃的なことなのか…(親父にも打たれたことないからだよ!)。

2022.10.7.

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*1 北インドの西ベンガル州とトリプラ州の公用語。
*2 ただし、だいぶ脚色された事・劇中の母子対立の描写に容赦がないことなどから、公開時インド国内ではあまり評判がよろしくなかったよう。
*3 特にインド人って、10代半ばでいきなり大人な顔つきにガラッと変化するみたいだし。
*4 原作よりも悲しみの度合いは増えているらしいけど。