インド映画夜話

Begum Jaan 2017年 127分
主演 ヴィディヤー・バーラン
監督/脚本/台詞/原案 スリジット・ムカルジー
"娼婦として生き、女王として死のう。この我が王宮で"




 2016年。ニューデリーの繁華街コンノートプレイスにて、バスの女性客を襲う男たちの前に老女が立ちはだかった。彼女は、無言のまま自分の服を脱ぎ捨てつつ男たちを睨みつけ、そのまま退散させてしまう…。

 時は遡り、1947年8月。
 英領インド最後の総督ルイス・マウントバッテンの命を受けた法定弁護士シリル・ラドクリフは、インド独立に際する印パの分離境界線をパンジャーブとベンガルに引いてインドとパキスタンという2つの国を作った。この机上のラドクリフラインによって、あらゆる物事が分断されていったのである…。

 そのパンジャーブ側のラドクリフライン上に建つ娼館は、女主人ベーガム・ジャーンによって集められた女性たちの元、彼女の敷く規則こそを絶対とする治外法権的な屋敷となって周囲の人々から一目置かれる存在になっていた。
 そこに印パ分離独立後、ベーガムの知人である政府役人が警察と共にやって来て、国法の名の下にベーガム・ジャーンら屋敷内の全ての人々の立ち退きを要求してくるが、ベーガムはその要求を笑い飛ばしこう宣言する…「ここはカーストも、信条も、宗教も問わない。お互いにね。ただ、女を選ぶ客に、それに見合う価値を提供する場所。ヒンドゥーもムスリムも、主義主張や身分の上下も関係ない。もしここを分断しようと言うのなら、その客の身体を分断しようじゃないか!!」


挿入歌 Holi Khelein (ブリジの女たちがホーリーを祝うわ)


 インド独立直後の印パ分離闘争時代を舞台とする、2015年のベンガル語(*1)映画「Rajkahini(王物語)」の、同じ監督によるヒンディー語(*2)リメイク作。
 インド本国と同日公開で、カナダ、米国でも公開されているよう。

 オリジナル版ではインドと東パキスタン(現バングラデシュ)国境上に建つ娼館を舞台にしていた映画が、本作ではヒンディー語(*3)圏の人々に向けてインドとパキスタンの国境地帯であるパンジャーブ地方の話に置き換えられて描かれていく。

 男たちを利用し利用される売春婦たちが、インドの独立以後も自尊自立を叶えることもできずに、権力を固持する男たちの都合に翻弄されて身を滅ぼすしかない状況に陥って行くのに対し、彼女らなりの抵抗する姿を見せつけていく一本。
 所々で、インドの歴史上・伝説上に記録される女性権力者の社会に対する抵抗の逸話を挟みながら、植民地時代も独立以降も、女性を搾取することしか知らない世間・それを問題視することすら気づかない社会状況の無関心具合を痛烈に描いていく様は、登場人物たちの世間に対する啖呵のキレッキレ具合が鋭ければ鋭いほど、無常観漂うインドの現実・現代の男社会の救いのなさをより露わに見せつけてくるようで、余計に現実の哀しさを露呈させる。

 監督を務めたスリジット・ムカルジーは、1977年西ベンガル州カルカッタ(現コルカタ)生まれ。
 コルカタの大学で経済学を修了した後、デリーにて環境経済学の修士号と哲学修士(?)を取得しつつニューデリーの都市交通汚染セクターの研究員として働いていたそう。経済学者としてバンガロール(現ベンガルール)に招聘されて博士号を取得した後、舞台演劇と映画への興味から仕事を辞めてデリーとバンガロールの劇団に参加。役者・脚本家・演出家を経て自身の劇団である"パンドラ"を設立。数々の舞台で活躍しながら、09年のベンガル語映画「Cross Connection」はじめ映画やTVドラマなどで作詞も担当。同年公開作「Madly Bangalee」で映画出演デビューとなった。
 翌10年に「Autograph(オートグラフ)」で映画監督&脚本デビューし、ビッグ・バングラムービー・アワード作品賞をはじめ多数の映画賞を獲得する。以降、ベンガル語映画界にて監督兼脚本家兼男優兼作詞家として活躍中。その業績から、数々の功労賞も授与されている。
 多言語映画を除けば、本作がヒンディー語映画監督デビュー作となるよう。本作と同じ年には、ベンガル語映画監督作「Yeti Obhijaan(冒険)」も公開させている。

 夫の死後に親戚たちによって娼館に売られ、売春婦として働く以外に道をなくしたベーガム・ジャーンの、身体を売ろうと心の自由は誰にも明け渡さない強硬な態度の強さが、徐々に崩されていく映画後半。ベーガム・ジャーンを愛そうとする学者先生も、ベーガムが頼りにしていた娼館の地主も、結局国家権力を前に態度を豹変させて彼女らを見捨ててしまう世間の厳しさ、今も解決不能な状態で続く分離闘争の悲劇の連鎖のありようが彼女たちに襲いかかっていく不条理の悲しさは、重い。
 ノスタルジックなセピア色に支配された画面も、歴史劇的ノスタルジーさよりも荒涼とした時代の空気を演出するよう。終始強面な態度を崩さないヴィディヤー演じるベーガム・ジャーンの不敵オーラも強烈ながら、様々な嫌がらせや妨害行為によって居場所をなくしていく娼婦たちを率いる物悲しさが、映画後半に行けばいくほど増大してその強面の裏に隠される言うに言われぬ感情の渦の複雑さたるや、もう…。
 俗世間の底辺に位置付けられてしまう娼婦たちが、国境線上の娼館こそを自分たちの自尊自立の拠り所(*4)として、実際の国家権力に逆らって"聖なる娼婦”へと変貌していく、と言う構図そのものに色々なモチーフが重ねられて様々な読み解きも可能な感じなんだけど、男の身では、その"聖なる娼婦"をどう語ろうと、それ自体が男側の論理になってしまうよなあ…という危惧も拭えず。自身の生きる道を模索する行為自体が、男側の論理への反抗になってしまう現実の歪みを、いつになったら世間が理解するのか…という諦観が、最初と最後の現代デリーの惨状の描写を始め映画全編に貫かれている映画であり物語であるということでありましょうか。分離独立闘争の悲劇は、いまだに終わっていないどころか、世界中にてより悲惨な形で拡大しているのかもしれない…とすら思えてくる一本でありますわ。

挿入歌 Aazaadiyan (この独立に祝福を)

*インドが長年求めた独立によって、パンジャーブだけで800万人もの人々が家を失い、職を失い、宗教対立による凄惨な殺し合いの犠牲となってしまった。祝福されるべき独立によって、さらに多くの血が流される現実を止める手立てを、誰も持っていない。独立の祝福歌は、歌詞に反して終始悲愴漂うものとなっていく…。



「BJ」を一言で斬る!
・国境線によって宗教別に人を分けようという国に対して『うちの警備員はどんなカーストの女から金をもらっている? 世話係はブラーミン出身だけど、なんの信者かわからない女のベッドの布を身につけている。ここはそういう所』と啖呵切るベーガムの力強さよ…!! 主義主張で現実が変わるのか、現実によって主義主張が変わるのか? 争いの歴史の答えや如何に…。

2021.9.24.

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*1 北東インド 西ベンガル州とトリプラ州の公用語。
*2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*3 …と言うかウルドゥー語も含めたヒンドゥスターニー語?
*4 家? 家族? 国? …故郷の代わりに?