Banjo 2016年 130分(137分、140分とも)
主演 リテーシュ・デーシュムク & ナルギス・ファクリー
監督/脚本 ラヴィ・ジャーダヴ
"私の夢。私の歌。私の音楽……"
"それは、私たちの音楽。私たちの歌"
ムンバイ。騒乱と喧騒のこの街で、アメリカ人録音技師マイク(本名マイキー)は新しい音を探していた。ガネーシャ生誕祭の夜、スラム街を歩くマイクは、偶然にも大盛況の無名バンドのバンジョーの音色に行き当たって…!
同じ頃、マイクの米国での友人のNRI(在外インド人)DJ兼ミュージシャン志望のクリス(本名クリスティーナ)は、3ヶ月後に迫るニューヨークのリミットレス音楽祭に共に出場してくれる新たな才能を探していた。
マイクから、ガネーシャ祭の時のバンド音楽を聴いたクリスは、早速ツテを使ってムンバイに赴き、そのバンドを探し出そうとする。スラム街開発を担う地元議員の協力を仰ぐも、その見返りとして議員のスラム街調査の手伝いをすることになったクリスは、スラムに詳しい地元人タラート("酒飲み"の意。本名ナンディキショーレ)に案内されてムンバイを歩き回り、同時に目的のバンドメンバーを探していく。実はクリスを案内するタラートその人が、探しているバンジョー弾きのバンドリーダーであることも知らずに…。
「貴方、スラムのことは全部知ってるのよね? バンジョー弾きの人を知らない?」
「……いやいや、俺はバンジョーなんて弾かないし分からないよ。みんなもそうだ。バンジョーなんてとんでもない。バンジョーは無し。さあ、先を急ぎましょう…」
挿入歌 Rada ([皆で] 楽しもうよ)
タイトルは、主人公が使うインドの弦楽器バンジョー(別名ブルブル・タラング)のこと。
その起源は、日本の大正琴から来ていて、1930年代に南アジアに導入されて人気を呼び、14弦の現在の形に発展したものである。劇中で描かれる通り、ストリートミュージシャンの間で使われることの多い楽器で、庶民人気は高いものの、格式ある古典音楽の世界に入れてもらえない歴史の浅い楽器扱いされているよう。
アフリカ系アメリカ人によってアメリカで作られた楽器、バンジョーとは別物(*1)。
マラーティー語(*2)映画界で活躍するラヴィ・ジャーダヴの、ヒンディー語(*3)映画監督デビュー作。
インドと同日公開で、オーストラリア、パキスタン、米国でも公開されたよう。
日本の大正琴を起源に持つ楽器をタイトルに、音楽映画(?)「ロックスター(Rockstar)」で映画デビューした女優ナルギス ・ファクリー主演の映画があると聞いてワクワクで見てみたら、やはり「ロックスター」共々音楽そのものに注目する映画ではなく、その音楽を成立させるインドの現実を風刺する映画でありました。ま、ヴィシャール=シェーカルの挿入歌の数々はそれなりにノリノリだったけど(*4)。
お話は、ムンバイのスラム街育ちで議員子飼いのゆすり屋をしながらバンジョーバンドを率いる下町っ子タラートと、ニューヨーク育ちのハイソな音楽業界勤めのクリスと言う生活環境違いの2人のロマンスを中心にして、ムンバイのスラムで生活する庶民の生活力、対応力、生命力の強さを見せつけ、外から来た音楽文化をも内に取り込んでインド化させるスラムの人々のたくましさを見せる構成。
下町根性の説明がやたら長いのと、ボケっぱなしのコメディ劇が冗長なので、あんまり話が盛り上がらないのが難点。インド側主人公タラートのふてぶてしさも最初だけで、ゆすり屋やってる場面はほぼ登場しないで下町の人々と助け合ってる浪花節な態度がクローズアップされ、なんだかんだ言い訳めいた長台詞がありつつわりと素直で優しいやつという部分ばかりが描かれるので、あんま米国育ちヒロインとの文化的ギャップとか、貧富の差に対する激しい感情の渦とかがないのが、音楽映画としての熱さを形成してくれない要因か。
そのタラートとのすれ違いロマンスをやっていた米国在住インド人ヒロイン クリスを演じているのは、やはり米国ニューヨークはクイーンズ区生まれのモデル兼女優ナルギス・ファクリー。
1979年生まれで、父親はパキスタン人、母親はチェコ人の元警察官。6才の頃に両親が離婚して、その数年後に父親が死去。ニューヨークのヨークタウンで育つ。アメリカ国籍ながら、そのルーツの多様さから自身の国籍について「世界市民」と称しているとか。
16才からモデル業を開始し、アメリカズ・ネクスト・トップ・モデル2004に出場して第2サイクルまで選出。その活躍から映画監督イムティアーズ・アリーにオファーされ、2011年のヒンディー語映画「ロックスター」で映画&主演デビュー(*5)を果たして、IIFA(国際インド映画協会賞)の注目主演ペア賞を獲得。数々の新人女優賞にもノミネートされる。以降、自分のルーツであるパキスタンと似た文化を持つインドを拠点にヒンディー語映画界で活躍。続く2013年の「マドラス・カフェ(Madras Cafe)」から自身の声で演技し、批評家から数々の評判を得ている。
2015年には、「SPY/スパイ(Spy)」でハリウッド映画デビュー。翌2016年公開の本作と同年に「Saagasam(冒険)」のダンスナンバー出演でタミル語(*6)映画デビューもしている。
2024年、妹アーリヤが元交際相手とその女友達を殺害・放火したとして逮捕される事件が発生。ナルギス自身は「妹とは20年間疎遠になっている」として事件へのコメントを拒否している。
自身の恋愛方面では数々の交際記事で世間を沸かしつつ、2025年にロサンゼルスを拠点にしているカシミール人実業家と結婚している。
監督を務めたラヴィ・ジャーダヴ(生誕名ラヴィンドラ・ハリシュチャンドラ・ジャーダヴ)は、1971年(1966年とも)マハーラーシュトラ州都ボンベイ(現ムンバイ)生まれ。
ヴィジュアルコミュニケーションとグラフィックデザインを修了して、大手広告代理店FCB・ウルカのクリエイティブディレクター兼コピーライターとして働き出す中、2009年のマラーティー語文芸映画「Natarang(大道芸人)」で映画監督&脚本デビュー。ナショナル・フィルムアワードのマラーティー語映画注目作品賞他多数の映画賞を獲得。続く2011年の「Balgandharva(名優バル・ガンダルヴァ)」も多数の映画賞を獲得しつつ、カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭でも上映された。2014年の短編映画「Mitraa」も、ナショナル・フィルムアワード短編映画賞を獲得。以降、マラーティー語映画界を代表する映画人へと成長し、性教育など大胆なテーマを描く監督としても名声を博す。
2014年のアビジット・パンセ監督作「Rege」でプロデューサーデビュー。本作でヒンディー語映画デビューし、2017年のプラサード・オアク監督作「Kachcha Limboo」で主演デビューもしている。
タラート率いるムンバイの下町っ子たちが、それぞれに音楽に興じてその実力を競いながら、クリス達音楽業界の人たちと仕事しようとした時に「楽譜が読めない」「音楽教育を受けたことがない」と言い出すのは、地味に衝撃。同じく下町っ子がラップで新たな人生を切り開く「ガリーボーイ(Gully Boy)」共々、その内なる鬱憤をのみ音楽の糧として発揮・発散させるインドの現実の厳しさをさらっと表現する語り口と、それでも人々を熱狂させる音楽を次々に生み出していく(*7)、音楽との距離の近さに感心してしまいますわ。タラートのバンジョーの師匠にあたる父親(?)の人生が、厳しいものであっただろう事をあえて語らず、その佇まいで見せていくあたりにインドにおける音楽物語の共通する背景が見えてきそう。
そんなインドにおける音楽文化と生活文化の近さを謳い上げつつ、それを偉大なるものと認めてくれる米国人達の価値観を喜びつつ態度に出さないようにする、インド人側の奥ゆかしさというか自信のなさを映画前半に置き、その庶民の中に爆発する音楽への熱狂をこそインドの偉大さであると米国人を見返すかのようなインド万歳を描いていく映画後半の「ニューヨークの音楽祭? どうせ認められないから関係ないね!出るならムンバイの音楽祭でしょ!!」って態度に、米国への対抗心ではないインド自身の自信の高まりを見るべきか。喜怒哀楽も冠婚葬祭も、音楽が欠かせないインドの現実は、音楽だけでは生きていけない厳しい現実との表裏一体をなしつつ、その生活文化の厚みを見せつけてくるようではある。
まあ、なにはなくともそのロン毛具合が、時々キッチャ・スディープを意識してそうなリテーシュの、全然スレていけない育ちの良さが滲み出てしまう下町っ子演技を見るだけでも楽しいでないかい?
挿入歌 Om Ganapataye Namaha Deva (偉大なるガナパティに栄光あれ)
*ガナパティとは、「群集の主」の意で現世利益の神ガネーシャの尊称の1つ。
「Banjo」を一言で斬る!
・バンジョーって、土砂降りの雨の中でも演奏できる楽器なのネ!(映画的演出デスヨネ。ソウデスヨネ。いや、ワカッテマスヨ)
2025.5.23.
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*1 それと区別するため、こちらの方をインディアン・バンジョーと呼ぶこともある。
*2 西インド マハーラーシュトラ州とダードラー・ナガル・ハヴェーリー及びダマン・ディーウ連邦直轄領の公用語。
*3 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*4 バンジョーの音色がカッコよかったので、もっともっとノリノリなものも聴きたかったよー。
*5 ただし、当時ヒンディー語が堪能ではなかったため、声は吹替。
*6 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。スリランカとシンガポールの公用語の1つでもある。
*7 都合よく生み出されていく?
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