インド映画夜話

David 2013年 118分
主演 ヴィクラム & ジーヴァ
監督/製作/脚本 ビジョイ・ナーンビアール
"2つの生き様は…1つの名前と共に"




 時に2010年のゴア。
 ベトゥル漁村に住む30才の漁師デイヴィッドは酒乱で有名なやさぐれ男。友人のピーターが、自分専用の船を手に入れるために近々結婚する予定だと聞かされて小馬鹿にしていたものの、紹介された発話障害者の恋人ロマの美しさにいきなり一目惚れ! なんとかピーターとの結婚を妨害して自分が彼女と結婚しようとあの手この手を考え始めるが…

 時に1999年のムンバイ。
 19才のデイヴィッドは、慈善事業に家財を切り崩す牧師の父ノエルに反発し、ギタリストとして大成することで貧しい実家を出て行くことが夢。念願かなって有名な音楽家の米国ツアーに参加できる事になったその日、突如何者かに先導されたデモ隊が父を襲撃。公衆の面前で彼を侮辱し暴行を加え、それを阻止しようとしたデイヴィッドもまた頭を強打されて意識を失ってしまう…


OP Vaazhkaye (The Theme of David)

*歌は55秒あたりから。


 1999年のムンバイと2010年のゴアを舞台に、それぞれの時代のデイヴィッドが体験する人生をかけた葛藤を、古代イスラエルの英雄であるダビデ王伝説に照応させながら見せていくタミル語(*1)映画。
 同時製作&同時公開で、一部キャストを変えた同名ヒンディー語(*2)版も公開された(*3)。
 「サタン ~悪魔の通り道~(Shaitan)」で、鮮烈的な長編映画監督デビューを果たしたビジョイ・ナーンビアール2作目の監督作となる。
 日本では、2017年にインド映画同好会にて上映。

 OPから、それぞれのデイヴィッドのエピソードの結末部分をザッピングして始まる映画は、これから2人のデイヴィッドに起こる不穏な葛藤を匂わせつつ、十数分ごとに2つの物語を交互に見せつつ、まったく接点のないはずのデイヴィッドの物語が、所々でシンクロし、同じ苦悩を抱える様を見せつけ、あるいはまったくの対極の生き様を描きながら、デイヴィッドと言う名前に導かれる奇妙な運命的符号がラストに不思議な形で集約されていく様を見せていく。
 見終わった後に「これは"ダビデとゴリアテの物語"の仮託」と言われて、ああなるほどと腑に落ちた次第。ま、それがわからなくてもそれぞれに軽妙な語り口のオムニバス映画として見れるようにまとめられている上に、ヒンドゥー側・イスラム側それぞれの価値観でも読み解きが出来そうな出来なさそうなモチーフによる、ミスリードを誘う仕掛けも組み込まれているかのよう。

 "デイヴィッド"と言うキリスト教徒の名前は、もともと古代イスラエル王国を作り上げた英雄ダビデ(B.C.1040生〜B.C.961没)に由来する。以下に簡単にその伝説をまとめると...
・イスラエル最初の王サウルが悪霊に苦しめられている時、神の託宣を受けて新たな王を探しに出た士師サムエルは、ベツレヘムにて羊飼いの"少年ダビデ"を見い出す。
・ダビデの弾く"竪琴の音色"はサウルの"心をよく静め"て王を助けた。
・ペリシテ人との戦いにおいては、誰も敵わない"巨漢の戦士ゴリアテとの一騎打ちに志願"し、"杖と石投げのみで勝利"した。
・その後は連戦連勝の英雄となりながらも、そのために王の不興を買い命を狙われることに。
・婚約者でありながら別人に嫁がされたサウルの娘ミカルの助けで命を救われつつ、"王への忠誠を最後まで守り抜いた"。
***********
・サウルの死後、ヘブロンにてユダの王に任命され(この時"30才")、ユダの一族をまとめあげて後継争いを勝ち抜いて全イスラエルの王に君臨する。
・ミカルと正式に結婚するも、勝利の踊りを踊るダビデを軽蔑したミカルには子供は授からなかった。
・晩年、家臣ウリヤの妻バト・シェバの"水浴びを見て彼女を見初め"て同衾してしまい、彼女の妊娠を知ってこれを隠蔽しようとするもうまく行かず、ウリヤを最前線に送って戦死させた後バト・シェバを正式に妻に迎えた。
・預言者ナタンにその不倫を責められ懺悔したものの、バト・シェバの産んだ子供はすぐに病死してしまう。
・この事件の数年後、ダビデとマアカの子でダビデ最愛の息子アブサロムの、異母兄アムノンへの復讐に始まる父王への反乱が勃発。王国は激しい内戦状態に突入する。
・「息子を生きたまま捕えよ」というダビデの厳命も虚しく、アブサロムの暗殺によって内戦は終結。ダビデは息子の死を大いに嘆くことになる。
・40年間のダビデ治世の最晩年、冷える身体を温めるためシュネムの処女アビシャグを世話役に置くことになったが、彼女の存在は次の王となるバト・シェバの息子ソロモンと異母兄にあたるハギスの息子アドニヤの対立を生み、アビシャグと結婚したいと望んだアドニヤはバド・シェバを通して"ソロモンの許可を得ようとした"ものの、ソロモンの怒りを買って殺された。

 映画は、ムンバイのデイヴィッドにはダビデ少年期の英雄性を仮託させ、ゴアのデイヴィッドにはダビデ老年期の卑俗性を仮託させているよう。
 まったく違う人生を歩み名前以外共通点のない2人のデイヴィッドを通して、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教史を代表する偉人と名高いダビデの2面性を現代インドを舞台にして描いていく。名前のもつ二重性、物語やテーマの二重性、それぞれの登場人物の二重性を見せつけつつ、そうした劇的人生を体験する英雄然とした主人公が、市井に埋もれる一般インド人として暮らしている点にもアイロニックさが強調されているようでもある。
 こうなってくると、ヒンディー版にある第3のデイヴィッドの物語は、ダビデの出生の問題(*4)を仮託した物語になる...か?(*5) キリスト教的には、数字の「3」は三位一体を現す聖数として大事な数字でもあるから、"3人のデイヴィッド"と言うのも色々象徴的な感じではあるけれど。

 監督を務めたビジョイ・ナーンビアールは、1979年ケーララ州コーチ(またはコーチン)生まれで、マハラーシュトラ州ムンバイ育ち。
 2005年に短編サイレント映画「Reflections」で監督&プロデューサー&脚本デビュー。その後、07年の「Guru(創業者グル)」からマニ・ラトナム監督作の助監督を務め(*6)、11年の「サタン ~悪魔の通り道~」で長編映画監督デビュー。スクリーン・ウィークリー新人監督賞を獲得して一躍注目監督となった。続いて本作のヒンディー版/タミル版の監督&プロデューサー&脚本を担当し、その後も監督兼プロデューサーとして活躍中。
 日本でDVDレンタルされた「ピザ(Pizza)」のプロデューサーも務めている他、17年には「Solo」でマラヤーラム語映画監督デビューする予定とか。

 もちろん、映画の全てがダビデ伝説と対応関係にあるわけでなく、あくまで換骨奪胎の上の現代インドへの翻案と言うか、伝説各要素をシンクロさせてる感じではある。
 意味ありげに登場してくる各登場人物とデイヴィッドとの関係や、ラストのピーターの結婚式を遠くから見るデイヴィッドの「あいつはピーター(=キリストの弟子のペテロ?)で、オレはデイヴィッドだから」と言う意味ありげな台詞から、その伝説との距離感、色々と仮託された集積イメージが「さあ、読み取ってくれ!」と言ってくるよう。
 ゴアと言うキリスト教徒の多い地域と、インド各地から人が集まってくるムンバイにおけるキリスト教勢力の立ち位置の違い、と言うのも劇中物語の背景として考えていくのも面白い、かもしれなくもないかも。うん。


挿入歌 Machi


「David」を一言で斬る!
・ヒンディー版があると言っても、タミル語映画でラーラ・ダッタを見るとは思わなんだ! …とか思ったら、これが2本目の出演作なんだってネ(役柄的にはサウル王の娘ミカル的ポジション?)

2017.11.2.

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*1 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。
*2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*3 こちらでは、タミル版では削除されたエピソードがもう1編存在し、3人のデイヴィッドが活躍する。
*4 聖書ルツ記によれば、ダビデの曾祖母はモアブ人である事が書かれており、その彼も純粋ユダヤ人ではないらしいことがわかる。が、往々にしてこの事実は熱狂的ユダヤ信奉者からは無視されるよう。
*5 未見なんでわかんないけど。
*6 本作でヴィクラムを起用出来たのは、以前にヴィクラム出演のマニ・ラトナム監督作「ラーヴァン(Raavan)」「Raavanan(ラーヴァナン」に助監督として参加していた事がきっかけだったとか。