インド映画夜話

熱風 (Garam Hava) 1973年 138分
主演 バルラージ・サーハニー & ギーター
監督/製作 M・S・サティユー
"今日はどなたが旅立ちで?"
"…私の家族だ"
"貴方は強い人だ。ここに残り続けるほど、心が裂けていくだろうに"




 国は分断され、人々の心は砕かれる。
 あらゆる所で嵐が渦巻き、火葬の炎はさらに高く燃え盛る。
 街という街は、あらゆる所で墓場となる。
 ギーターも、コーランも、誰が耳を貸すというのか。
 信仰は、その意味を亡くしてしまった。あらゆる所で…

 インド独立後に吹き荒れる印パ分離の嵐の最中、連合州(現ウッタル・プラデーシュ州)アーグラの靴工場主サリーム・ミルザーは姉夫婦がパキスタンへと旅立つのを見送っていた。
 工場経営で富裕な暮らしを維持するサリーム一家と、全インド・ムスリム連盟幹部の兄ハリームの一家は、共にパキスタン移住を拒否し祖父の邸に残ろうと決めていたが、家族はそれぞれに苦悩を抱えていた…。
 年老いた母親の世話、子供達の進路、恋仲となっているサリームの娘アーミナーとハリームの息子カーズィム、密かに移住を決意するハリーム一家、インドを去るイスラーム教徒たちを信用しなくなる銀行や不動産業者たち、逼迫する生活費や経営資金…。それでもサリームは、頑なにアーグラに残り続けていく…。




 小説家イスマット・チュグターイー原作の未発表ウルドゥー語(*1)短編小説を映画化した、印パ分離の時代を生きるムスリム一家の苦悩と崩壊を描くウルドゥー語+ヒンディー語(*2)映画。

 公開されるやインド芸術映画界のニューウェーブとなる傑作と称されたそうで、後年への影響も大きい一本。インド国立映画賞の3部門を獲得した他、米国アカデミー賞外国映画作品ノミネート候補のインド代表作に選定、カンヌ国際映画祭でもパルム・ドール・ノミネートされた。
 日本では、1988年の大インド映画祭にて初上映され、2007年の国立近代美術館フィルムセンターの「インド映画の輝き」でも上映。さらに2018年のイスラーム映画祭3でも上映された。

 1947年にイギリスからの独立を勝ち取ったインドは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒間の対立によってその正式な独立(8月15日)前日に、インドとパキスタン(*3)の2国に分離独立することとなった。
 その混乱は、半ば強制的な移住を強いられる一千万人を超える難民の発生、その大量の人の移動による各地の暴動と虐殺その報復の連鎖へと拡大し、現在も続く印パの相互不信・憎悪・対立をより根深いものとする悲劇の数々が生まれていくこととなる。
 この時代の悲劇を描く「動乱文学」を原作とする本作は、まさにこうした時代背景に翻弄され続けるインド在住のイスラーム教徒の一家に静かに、しかし確実に忍び寄る悲劇のありさまを淡々と、詩的に描いていく。日本公開作「ガンジー(Gandhi)」「ミルカ(Bhaag Milkha Bhaag)」などでも、この時代の様子が映画で表現されているのを見ることができるけど、本作は、こうした歴史のうねりを庶民の、1家族の視点のみで描いていく静かな日常劇になっているのが特徴的。

 パキスタン映画「声をあげる(Bol)」では、印パ分離によってパキスタンに移住したイスラーム教徒の子孫を襲う悲劇が描かれていったけども、こちらは印パ分離当時のインドに残り続けるイスラーム教徒の一族が、どんな苦境に立たされていったかを描いていく映画。
 それなりに富裕層な暮らしをしている主人公一族が、パキスタンに続々移住せざるを得ない人々を見送りながら、地縁・人脈で商売してきた今までの生活基盤を徐々に奪われ、仕事や収入、そのキャリアすらも否定されていく様は痛々しく厳しい。しかし、物語はその中で生まれる家族間の愛情、男女のロマンス、日常の悲喜こもごもを繊細に積み上げて、混乱の時代に生きるある家族の生活のありさまを、空を行く鳥や凧、古めかしい屋敷様式、流れゆく川や人の波といった象徴的なイメージに重ねて映していく。
 家計逼迫のために、食費を浮かそうと自分だけ夕飯を食べないでいるサリームを気遣って、娘アーミナーが持ってきた食べ物をブツブツ文句言いながら口にする姿のおかしさと可愛さが、シリアスな物語に光明めいた希望を投げかけてくるのがなんとも愛おしい。そうした、家族の悲喜劇はしかし、ラスト近辺の世間の理不尽の畳み掛けによって木っ端微塵に砕けれていってしまうのは、計算された演出術であり作劇術であるけれど、ラストのサリームの眼差しの哀しさを増幅させて、なんとも辛く厳しい現実を目の当たりにさせまする…。

 監督を務めたM・S・サティユー(本名マイソール・シュリーニーヴァス・サティユー)は、1930年マイソール藩王国マイソール(*4)生まれ。
 大学を中退して映画界を志してボンベイに渡るも、なかなか仕事にありつけず失業状態になっていたところに、映画監督チェータン・アーナンドのアシスタントの仕事を得て63年のヒンディー語映画「Kinare Kinare」で映画界入り。続く64年のチェータン監督作「Haqeeqat(真実)」で助監督兼美術監督で参加してフィルムフェア美術監督賞を受賞し活躍の場を広げ、美術監督、撮影、脚本などのほか、インド人民劇場運動に加わって舞台演劇やTV界、ドキュメンタリーでも活躍する。
 71年の印ソ共同制作映画「Chyornaya Gora」でアレクサンドル・ズグルディと共同で監督に就任して映画監督デビュー。本作が長編映画の単独監督デビューとなる。
 75年には国からパドマ・シュリー(*5)を贈られていて、以降も数々の映画賞を獲得している。

 本作主役には、サティユー監督が注目されるきっかけとなった「Haqeeqat」でも主演していたバルラージ・サーハニーが担当してその演技力を余すところなく発揮してるし、脚本にはウルドゥー語詩人カイフィー・アーズミーと監督の妻でもある脚本家兼衣装デザイナー兼美術監督兼ドキュメンタリー監督のシャマー・ザイディーが担当という配置も注目。
 バルラージ・サーハニーとともに主演を張った、サリームの娘アーミナー役のギーター(*6)は、72年のヒンディー語映画「Parichay」のノンクレジット出演を経て本作で主演デビューした女優。本作で高い評価を受けてから90年代前半まで大活躍する(*7)。のちにドキュメンタリー監督シッダールト・カクと結婚し、娘アンタラー・カクは父親監督作の助監督を経てドキュメンタリー監督になっているそうな。

 駅でパキスタン行きの汽車を見送るサリームの、話相手になる馬車の御者が存在感といいその語口の軽妙さと言い映画を俯瞰する視点で物語をまとめ上げる役になってるのも象徴的。その2人の語らいから始まる映画の数々のセリフやイメージが、悲劇に見舞われつつある家族の日常のその時その時の象徴になっていく映画術と、その上で描かれる繊細な生活描写が、大河ドラマと朝ドラを同時に見ているような読後感を与えてきますですよ。


受賞歴
1973 National Film Awards ナルギス・ダット国家統合注目作品賞
1975 Filmfare Awards 台詞賞(カイフィ・アーズミー)・脚本賞(カイフィ・アーズミー & シャーマ・ザイディ)・原案賞(イスメット・チュンタイ)


「熱風」を一言で斬る!
・ミルザー邸と言い、タージ・マハールをはじめとするムガル時代の遺跡と言い、絵になる建築群が次々出てくるアーグラの歴史の厚みもまた、トンデモないね…。

2018.4.27.

戻る

*1 ジャンムー・カシミール州の公用語でパキスタンの国語。主にイスラーム教徒の間で使われる言語。
*2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*3 +東パキスタン、のちのバングラデシュ。
*4 現カルナータカ州マイソール。
*5 インドが一般国民に贈る、4番目に権威ある国家栄典。
*6 結婚後はギーター・シッダールタ。
*7 伝説的名作「炎(Sholay)」でもゲスト出演してまっせ!