インド映画夜話

Hrid Majharey 2014年 122分
主演 アビル・チャタルジー & ライマー・セーン
監督/原案/脚本 ランジャン・ゴーシュ
"近々出会う人に惹かれ行く、その心に気をつけよ"
"それがもたらす慰めは、さらなる痛みを与える暴君となろうから"



 その夜、オビジート・チャタルジーの目の前には、女性の刺殺体が横たわっていた…。
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 コルカタの聖ザビエル大学の人気数学教授オビジート・チャタルジーは、同居している刑事事件レポーターの妹モリッカー(通称モリー)とその彼氏との外食中、オーナーと言う占い師ホー・チン・ホァと出会い運命論の講義を聞くことになるが「運命なんてありえない。全ては自ずから説明可能だ」と断言して彼女の話を一蹴。オーナーは、それに対して「近日中に出会う人に気をつけなさい…」と意味深に語り終えるのだった。

 そんなあるスコールの晩。
 彼は偶然タクシーが壊れて立ち往生していた心臓治療研修医の美女デーブジャーニ(通称デビィ)と出会い、彼女を自宅まで送り届けたことをきっかけに仲良くなって毎週のように交流していく。
 だが、いつまでも続くと思われたこの幸せな日々は…

挿入歌 Jaa Urey

*ボートブレア移住後に、それまで知らなかったデビィの特技や友人、アンダマン諸島の景観に魅了されていきながら、どこか煮え切らない気持ちを増幅させていくオビジートの図。


 シェイクスピア生誕450周年記念として世界中の映像作家を集めて企画された、シェイクスピア・インスパイア映画シリーズのうちの1作。脚本家出身のランジャン監督デビュー作となる、「オセロー」を現代ベンガルに翻案したベンガル語(*1)映画。
 要素として、他に「マクベス」「ジュリアス・シーザー」も含まれ、ベンガル語映画界では初となる、シャイクスピア・オマージュ映画となった。

 イギリスでも高い評価を受け、英国オックスフォードのケンブリッジ&RSA審査委員会による「オセローをテーマとした国際的翻案作」選出6作のうちの1作に選定(*2)。ドラマ&シアターコースの学習リストに追加された他、シェイクスピア研究者からも「1949年以降公開されたシャイクスピア映画のトップ10」の1つとして評価されていると言う。

 映画は、開始早々にラストシーンとなるヒロインの死と慌てる主人公を定点カメラで写し取り(*3)、本作においてこの2人が"オセローとデスデモーナ"に対応することを最初に観客に知らせながらOPが始まっていく(*4)。
 この悲劇が、どのような過程を経て起こったことなのかを本編で描いていくわけだけど、コルカタを舞台にした前半だけで言えば、「マクベス」の3人の魔女をモチーフとしているレストランオーナーの予言によって始まる、オビジートとデーブジャーニのロマンスを中心に描くさわやかな恋愛劇。
 予言めいた運命論のみが不穏な描かれ方をしている他は普通の恋愛映画のようで、発端と過程をきっちり描きたがるインド映画文法にそった展開をしていきながら、主役2人の知的で理論派な態度や、自由意志の尊重による運命論の否定が、それを実際に克服していくかのようなシーンをポジティブに描いていく。

 しかし、中盤から徐々に運命は悲劇へと動き出し、後半の南アンダマン島を舞台にした風光明媚な観光地の日常が、ちょっとしたすれ違いと誤解を積み重ねていくことで「オセロー」的悲劇へと転げ落ちていくさまを、絶妙な心理劇で見せていく。自分の理想に向かって精一杯の努力を傾けていきながら、そうしようとすればするほどに理想からは遠ざかっていく人生の不条理を、「オセロー」に対応させつつ、より自然な現代劇に見せていく脚本・演出の妙は、手堅い作り。
 ラストの悲劇にかぶせるように、主人公オビジートのちょっとした…なにげない…選択の違いによって、ハッピーエンドもありえたかもしれないと言うもう一方のエンディングを「しょせん夢想シーンだけどね」とでも言いたげに見せていく手法、その鍵となる"プレゼント(*5)"の存在は、印象的かつ達観した人生へのアイロニーを見せつけられるよう。シェイクスピア悲劇における、(演劇的)強引な運命論の展開への疑問や、それでもなお肯定的な選択ができない人間の不条理への問いかけのようにも…見えてくる?

 監督を務めたランジャン(・K)・ゴーシュは、1983年コルカタ生まれ。
 西ベンガル州バルッダマーン県ドゥルガプルで育ち、コルカタのジャダヴプル大学で物理学を専攻するも、すぐに船舶技術を学ぶために中退し、後にムンバイ大学に入り直して海洋学の学位を取得。その後、ムンバイの映画学校ウィストリング・ウッド・インターナショナル研究所に入って映画制作を学ぶ中で、09年公開のベンガル語映画「Antaheen(永遠に待ち続けて)」の助監督兼脚本補助を務めて映画界入りする。
 09年の研究所卒業後、10年映画祭上映作(翌11年一般公開)の「Iti Mrinalini(書き終わらない手紙)」で脚本デビューを飾った(*6)他、端役出演&プロダクションデザイン補助も担当。その後、映画監督プラカーシュ・ジャーのベンガル語映画プロデューサーデビューとなる映画企画の脚本に参加するも、西ベンガル州の政治状況に触れるテーマ故に企画が頓挫しているとか。
 本作は、学生時代の08年には脚本初稿が出来上がっていたそうで、12年までに数々の手直しを入れた上で制作が始動したと言う。アンダマン諸島各地でのロケは、ベンガル語映画としては79年の「Sabuj Dwiper Raja」以来となる快挙としても報じらている。

 ドアも窓も開け放たれた開放的なコルカタの大学を舞台にした前半で、美女との恋愛の進展故に言い寄ってくる女子学生を無碍にあつかい、ために嫉妬渦巻く陰謀によって大学で孤立し閉塞していくアビジートの心境は、オセロー的であるとともにデスデモーナにも対応するかのよう。
 第1の嫉妬によってコルカタを追われるオビジート(*7)がもとめたデーブジャーニとの幸せな日々も、映画後半に現れてくるそれまで知らなかった(*8)彼女の隠された側面によって、オビジート自身に湧き上がる第2の嫉妬によって取り返しのつかない悲劇へと転がり落ちていく。
 原作「オセロー」に見える、主人公を陥れようとする明確な悪役(イアーゴー)の存在がいない本作において、その役割を果たすのはオビジート自身が招いたシンジニーへの嫉妬であり、第2の嫉妬に狂ったオビジートを助けようとする妹の助言であり、過去のデーブジャーニを知るシュブローの友情であり、デーブジャーニ自身の愛のささやきである。彼の嫉妬そのものが、ポジティブな周りの気持ちをすれ違わせ、別の意味に曲解させ、否定されるべき運命なるものを呼び寄せ狂わせていく。

 戯曲の中でオセローを襲ったさまざまな障害が、現代劇の本作において同じく嫉妬を根本原因としながらも別の側面を浮かび上がらせているような描写と展開に発展していき、まさに本作が「オセロー」を題材としながらも現代社会を切り取っていく「シェイクスピア劇を昇華発展させた現代の物語」になっている事を見せつけている映画になっている…かもしれない(弱気)。

挿入歌 Chaleche Chupi Chupi


「HM」を一言で斬る!
・劇中に出てくる、KFCに似たAFCってお店はなんじゃらほい?(調べたら、米国ルイジアナ州ジョージアを本拠とする飲食チェーン店って出て来たけど…)

2017.6.17.

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*1 北東インド 西ベンガル州とトリプラ州の公用語。
*2 本作の他、インド映画ではヒンディー語映画「オムカラー・シュクラー(Omkara)」も選定されている。
*3 その間20秒。
*4 このOP曲が、非常に印象的かつ美しい!
*5 オセローにおけるデスデモーナのハンカチ?
*6 いつも自身で脚本を作り上げるアパルナ・セーン監督作としては、89年の「Sati(サティ)」以来2作目となる共同脚本作だそう。アパルナ監督の名前は、本作でも冒頭にTHANKSとして特別にクレジットされている。
*7 オセロー+デスデモーナ的存在?
*8 あるいは気づかなかった?