インド映画夜話

India Lockdown 2022年 112分 主演 シュウェーター・バス・プラサード & アハーナー・クムラー & プラティーク・バッバル & サイ・タムハンカル & プラカーシュ・ベラワディ & サーナンド・ヴェルマー
監督/製作 マドゥル・バンダールカル
"全てが、変わった"




 "生きる上で最も偉大な栄光とは、決して転ばないことではない。"
 "転ぶたびに起き上がり続けることだ。 ーネルソン・マンデラの言葉"

 高級住宅街で愛犬と暮らしているM・ナゲーシュワル・ラーオは、妊娠中の娘の世話のため、先に行った妻を追って近々ハイデラバードに向かう予定。そのため、家政婦プールマティに「コロナ予防のため」を理由に雇い止めを言い渡していた。安全のため、皆が家の中にいるべきだと…「ご主人様、1つよろしいですか? 外出しないで、どうやって食べていけるのでしょう? これから、貧しい人々は飢えて死んでいきますよ…。貴方も、これから数日の間1人でどうやって家事をするのです?」

 こうして、一部地域に限られていたものに代わり、インド国内全土のロックダウンが21日間行われることが正式決定された。
 大学生パラクは、近々婚約しようとしていた恋人の誕生日パーティーそのものができなくなったことに驚き、ワーカーホリックな旅客機パイロット ムーン・アルヴスは仕事もできずに自宅マンションに籠ることに。それまで疎遠だった同じマンションに住む大学生デーヴ・グプタ(パラクの恋人)と始めて知り合うことになって親しくなっていく。ナゲーシュワルのハイデラバード行きも航空機が動かないため頓挫し、自分で車移動しようとするも、当面の生活物資を手に入れるための長蛇の列を見るだけで疲労困憊。さらに、隣室の住人がコロナ感染で入院したと伝えられて…!
 売春宿勤めのメヘルンニサー(通称メルー)も暇を持て余すことになり「ムンバイで看護師の仕事をしている」と伝えていた母親からの連絡をどうしたものか思案しながら、テレビ電話アプリを使った仕事を仲間達と開拓中。地方から出稼ぎに来ていたマーダヴ・プラカーシュ(家政婦プールマティの夫)は、屋台車一式の購入ローンや家賃を捻出する見込みもないまま、借金取りの嫌がらせに耐える毎日を過ごすことになってしまい、仲間達から「仕事のない都会より、仕事がなくても食料はある故郷に歩いて帰ったほうがいい」と提案されてしまう。
 その間も、スラム街を中心に政府の外出取締や感染者捜索の手が広がってきて……


プロモ映像 Ghor Bhasad (なんと激しい混乱か)


 一時大きく取り上げられた、インドにおけるコロナ感染症対策のための国内ロックダウンの惨状を描くヒンディー語(*1)群集劇。
 予告編には「実話に基づく」とあるけれど、映画本編では冒頭に「この物語はフィクションである」とハッキリ注意書きが出てくる。

 ムンバイを舞台に、国内全土のロックダウンがもたらした人々の暮らしの変化、生活基盤が大きく変わった事に戸惑い、あるいは生命の危機に瀕するほどの逼迫状態へと追い詰められる姿を、それぞれに微妙にすれ違う隣あった空間に生きる人の姿として並行的に描いていく1本。
 過去のマドゥル・バンダールカル監督作と同じく、ジャーナリズム的な視点である程度、ロックダウン中に起こった出来事を取材した上で作っているんでしょうけど、大雑把に4つの物語が同時進行する本作は、そこまで当時のインドの姿を描き出そうと言う出歯亀的なこだわりは薄く、ニュース報道から着想を得たオムニバス構造のお話を並べた感が強い。

 富裕層〜貧困層それぞれの生活が緊急事態に対してどれほど変わっていくかを描き出すお話とは言え、命の危機を迎えるのは都市部を離れる貧困層のマーダヴ一家、同じようにムンバイを離れるナゲーシュワルがそこに奇妙に関わってくるくらいで、都市に残った富裕層のパラク一家や大学生デーヴ、旅客機パイロットのムーン、売春窟で働くメヘルンニサーをはじめとする娼婦たちなんかはわりとお気楽にその日その日を過ごしていて、あんまり命の危機とか衣食住に奔走するとかな態度が見えないのがなんとも。エピソードの中に医療関係者が登場せず、病院関連の混乱と焦燥、感染が広がっていく恐怖が何も描かれないのは意図的なんだろうけど、なんとなく話の奥行きが見えない思いつき感が強くてね…。

 監督を務めるマドゥル・バンダールカルは、1966年(1968年とも)マハーラーシュトラ州都ボンベイ(現ムンバイ)生まれ。
 マラーティー語とコーンカーニー語を母語とするゴード・サラスワト・ブラーミン(*2)家系出身で、学校を中退して少年時代から様々な仕事について生活費を稼ぐ。その中で、ビデオ店の配達員として映画ビデオを取り扱う仕事をしながら、様々な映画に触れて映画業界に興味を持ち、助監督の仕事について映画界入り。ラーム・ゴーパル・ヴァルマー監督のもとで助監督していた時に、「Rangeela(色彩)」でカメオ出演もしている。
 1999年、3年もの製作期間を経てヒンディー語映画「Trishakti」で映画監督デビューするも、特に話題になることもないまま。続く2001年の2本目の監督作&脚本デビュー作「哀しみのチャンドニー・バー(Chandni Bar)」でムンバイの裏社会を赤裸々に描き出し、ナショナル・フィルムアワードの社会問題作品賞を獲得。批評家からも絶賛され、一躍注目の映画人となる。以降も、ヒンディー語映画界で報道界、大企業、ファッション業界などの裏側に潜む社会問題を描き出す映画監督として高い評価を受け、世界各地で功績賞などが贈られている他、2010年にはNFAI(インド国立映画アーカイブ)が、監督作すべての登録保存を発表した。

 主要登場人物中、ナゲーシュワル以外は特にマスクもせず、握手も口喧嘩も普通にするし食料品を求めてスーパーにくれば、横入りを警戒する密な行列が生まれて「コロナ対策大丈夫なんか?」と心配したくもなるけど、そこに隣室の住人がコロナ発症したと言われて建物自体が閉鎖されるナゲーシュワルの衝撃は効果的物語進行。その対比的な日常間演出は、ロックダウンと言っても、できるだけ普段通りに生活して異常事態の異常性を無視しようとするムンバイ人たちのしたたかさを見るようではある。
 コロナの恐怖は、隣人の病死を告げられるナゲーシュワル1人に割り当てられている状況で、より過酷な徒歩によるビハール州への帰路についた出稼ぎ民プラカーシュ一家の恐怖は感染症と言うより、ムンバイの借金取りたちや共に徒歩の旅に着く(信用したいのに)信用できない同郷の道連れたちとの不和、そこからくる孤立と飢餓の方。娼婦メヘルンニサーなんかは「ロックダウンで誰も客が来ないなら、テレビ電話で客取ればいいじゃん!」と案外お気楽に新商売を開拓していたりする。ポン引き男に救急車を持ってこさせて、外出禁止の中でも堂々と出張依頼をこなしてたりとしたたかな娼婦たちの生活根性をあっけらかんと描いているのも都市生活者だからってことなのかどうなのか。彼女の危機は、貯金を盗まれて初めて立ち上がってくるし、売春宿で養われている妹分の孤児の少女が「ここから逃げる」と言い始めて初めて意識させるのは、コロナ云々を抜きに「ロックダウン」と言う非日常を描くことが主眼にあるからでしょか。
 それでも、最後にそれぞれのエピソードはある程度のまとまりを見せて、関係ないはずの人々が運命的にか皮肉的にか微妙なすれ違いの関わりを見せて、日常に戻っていく筋立てなんかは、うまく構成されているなあと感心しつつ、貧困層にばかり苦労が押し付けられているよなあ…とは思いつつも、それなりに希望あるインドの姿を見せてくれて読後感は爽やか。現実の全てがこうだったら救われるんだけどねえ…と思えてきてしょうがない、現実と虚構の合わせ鏡的な効用を持つ1本になっている感じ。



プロモ映像 Loot Loongi (ルンギを奪って)





「IL」を一言で斬る!
・インドでも、マスクしてる人に『必要ないのに』ってわざわざ言ってくる人いたのネ。

2025.6.20.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*2 略称GSB。別名ガウド、シェンヴィとも呼ばれる、正統バラモン階級サラスワト・ブラーミンから分化したコンカン地方発祥とされるバラモン階級。しかし、周辺地域のバラモンからはそのルーツを認められていないことが多いよう。
 15世紀初頭にはその多くが交易商人として活躍。マラータ王国時代には行政官を多く輩出した。
*3 ヒンディー語は印欧諸語に属し、格変化あり。対しタミル語はドラヴィタ系に属する日本語に近い文法構造の言語。特にタミルは、国の「ヒンディー語を唯一の国語にする」と言う方針に猛烈に反発している地域とも言われてたりするし。
*4 食だけでも小麦中心か米中心か、菜食か肉食か、アルコールを飲むかどうかも地域やコミュニティごとに大きく異なってくる。
*5 結婚時のダウリー始め結納品の有無とか。
*6 屋内で靴を脱ぐのか脱がないのか等。
*7 多少メルヘン的なニュアンスも匂う?