インド映画夜話

エンドロールのつづき (Chhello Show / Last Film Show) 2021年 112分
主演 バーヴィン・ラバリ
監督/製作/脚本 パン・ナリン
"恋に落ちたのは「映画」だったー"




 インド北西部グジャラート州の南部一帯を占めるサウラーシュトラ(別名カーティヤワール半島)にあるチャラーラ村(アムレーリー県内)で生まれ育った9才の少年サマイは、その日家族で見に行った映画館にて、映写機から放たれる光線そのものに魅了されて行った。

 その日以来、サマイは学校を抜け出し、父のチャイ売り仕事の売り上げの1部をネコババしたりしながら映画館に通い詰め、そのスクリーンを彩る光線を追い続けていく。
 ついに無銭入場までしたがために劇場を追い出されてしまったサマイだったが、その劇場の映写技師ファザルと親しくなり、母が持たせてくれるお弁当をファザルに与えることを交換条件に、映写室からあらゆる映画を見ることを許されるようになる。様々な映画に触れていくサマイは、やがて映写技師の仕事を手伝うようになって映画の仕組みを理解していくように…。

 ある日、サマルは太陽を眺めながら友達に提案する。
「なあ、光を捕まえよう」
「そんなの無理だよ」
「光を映すんだから、まず捕まえないと」
「でも、どうやって?」




 パン・ナリン監督の幼少期の思い出を元にした、映画愛に満ち満ちたグジャラート語(*1)映画。
 世界中の映画祭で上映されて評判を呼び、2023年の米国アカデミー賞外国映画賞インド代表作に選定されている。日本でも2023年に監督来日の上で一般公開(*2)。 翌24年には高崎映画祭での上映。

 その多くの劇中エピソードが、監督自身の体験を引き写したものとの事で、あの話もこの話も実話が元と言う驚きがあると同時に、映写機の光を頼りに「映画」と言う構造に魅了されていく劇中の人々の映画と生活との近さが羨ましくもあり、その生命力のたくましさにビビってしまいそうになる。

 サタジット・レイの「大地のうた(Pather Panchali)」の頃には、前近代的暮らしの農村地帯の地平線を走る機関車が近代文明と言う象徴と距離感を力強く表していたけれど、本作ではその機関車ももはや時代遅れとなり、電車の開通で駅の統廃合が行われた結果主人公の家の生活の糧がなくなり、映画がフィルムの時代からデジタルの時代へと移行する事で、やはり同じように仕事を失う技術者の悲哀が拡大していく時代へと向かっていく様を描く本作。
 「学び続けるためには、村を出よ」と教師が言うくらいの農村地域で育ったサマイが、それまで触れてこなかった映画という存在を知って、その構造を学ぶや自分で作ってしまおうと奔走する姿は微笑ましくもあり、恐ろしくもあり。自分を振り返っても、似たような「映画館に行くのに電車が必要」な所で育ちましたけど、映画の中身に感動しても映写機に興味が行かなかったなあ…。日本にも、映写室の方に興味が行ってそこに入り浸って「ニュー・シネマ・パラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)」的な生活しながら映画の道に進んだ人物とかいるんやろか。その行動力、向上力、興味が体を動かし手を動かす創造力、それを楽しむことこそ、生命の力というものでありましょか。素直にその好奇心を表現する術を知っている子供は最強ですわ。

 それにつけても、劇中画面に切り取られた風景の1つ1つの美しさもまた印象的。
 好奇心の赴くところに従って電車内の電球その他を盗んできてしまうサマイをはじめとする子供達の行動力は、手放して褒められるものでないにしても、その素直な行動力はあの「なにもない」と言われながらも緑豊かな自然の風景によって生み出されていったものなのか。大小様々な動物がわりと身近に生息して、子供達は刺激がない分知恵を絞って遊びのネタを考え、家ではサマイの母親がバラモンらしく菜食での様々な料理を作って行く。その静かな定点カットが小気味よく挟まれるほどに、劇中舞台の幻想性は増し、映写機の光とのシンクロを成すよう。半自伝的であるが故にか、そう言ったノスタルジー的な幻想性が、後半の展開へのショック度を高くする準備段階となる、残酷にして美しい画作り。
 衰退して行く「のどかな農村」はいつかは姿を消すが故に幻想的であり続け、物質文化に満たされ、さらなるデジタルの波に揉まれて行く「現代」は、そういった過去の幻想を別の形に封じ込める事で成り立って行く。技術の発達が促す現代社会が目指すのはなんなのか、犠牲にして行くのはなんなのか。なにを持って「恥知らずな仕事」というのか。人それぞれながら、答えを見つけて歩み出す人間は強いよ、良くも悪くも。

 撮影に際して、実際に舞台となるサウラーシュトラでのロケを敢行し、地元の子供達をオーディションしてグジャラート語母語の人々を役者として出演させていたというグジャラート愛にも満ちた映画でもある本作(*3)。
 「大地のうた」的な没落したバラモン一家の姿、カーストとはまた関係ない所での職業の貴賎が存在する状況、かつての駅長の友人との思い出に見え隠れするサマイの父親の過去…。イスラーム教徒の映写技師ファザルが、サマイの菜食弁当を美味しいと頬張る姿の中にも、なにかしらメッセージ的なものが匂ってきそうでもある(しなくてもいい深読み)。
 時代の移り変わり中にあって、変わるもの変わらないもの、滅びゆくもの不滅のものが渾然一体となった成り行きを、ある一定の距離感で透徹と描いて行く映画は、それが「嘘」で固められたものであることを言及しながらも、いつも変わらぬ「少年の成長劇」と「家族愛」を見せて行く。あるいはそれこそ、時代がどう変わっていこうともいつでもどこでも共感を持って見る人の心を動かさずにはいられないものでもあろうからか。




受賞歴
2021 米 Mill Valley Film Festival 外国映画部門観客賞
2021 西 Valladolid International Film Festival 金のスパイク(作品)賞
2022 米 Milwaukee Film Festival 著名審査員特別賞
2022 AWFF (Asian World Film Festival) 雪豹(作品)賞
2023 西 Di´as de Cine Awards 人生の影賞
2023 米 Satellite Awards 新人パフォーマンス賞(バーヴィン・ラバリ)


「エンドロールのつづき」を一言で斬る!
・鏡に光を反射させて、人の顔にその光をぶつけるやつ、1度はやるよね!(あかんで!)

2023.9.16.
2024.2.23.追記

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*1 西インド グジャラート州、ダードラー・ナガル・ハヴェーリーおよびダマン・ディーウ連邦直轄領の公用語。
*2 日本で一般公開された初めてのグジャラート語映画となった。
*3 ただ、サマイの友人マヌ役のラフール・コーリーは、小児白血病のために本作公開の数日前に10才で病死されたと言う…合掌。