インド映画夜話

亜細亜の光 (Prem Sanyas / The Light of Asia) 1925年 97分
主演 ヒマンシュ・ラーイ & シーター・デヴィ
監督 フランツ・オーステン(原案も兼任) & ヒマンシュ・ラーイ(製作も兼任)
"世界よ、ああ苦しみに満ちた世界よ。私はそれを見、それを聞いて、ここにいる…"




 毎冬、観光客を惹き付けて止まないインド…。
 デリー、ベナレス(現ヴァナラシ)、ブッダガヤ…数多の文化が混ざり合うインドを観光する欧米人たちを前に、ブッダガヤの菩提樹に座する老僧は「仏陀とは何者か」を問われこれを語り始める…

 …キリスト教誕生から遡ること、さらに6世紀ほど昔。
 マガダ国勢力圏のヒマラヤ山中にいた、シャーキャ族のシュッドーダナ王(*1)とマーヤー王妃(*2)は、世継ぎが生まれないことを憂いていた。そこに現れたアシタ仙は「これから王妃が生む子供は、人々を無知から救う解脱者となるか、または世界を支配する大王となる」と宣言。その頃、突如産気づいた王妃が、庭園のすみにて男の子を出産していた…。



 英国人東洋学者エドウィン・アーノルドが1879年に書いた英語詩「The Light of Asia」を元にした、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタの生誕〜悟りの伝道までを描く独印合作サイレント映画(*3)。
 公開された1925年と言えば、映画史的にはその年末の12月に初めてモンタージュ理論を確立させたと名高い傑作「戦艦ポチョムキン」が、ソ連で公開される年である(*4)。

 英題「The Light of Asia」、ドイツ語版「Die Leuchte Asiens」としても公開され、再評価の高まった2001年にはリストア版が公開されている。
 日本では1926年に一般公開されており、記録上日本で公開された初のインド映画となるよう(*5)。

 1時間39分の内容は、それぞれ7つに別れており、
 冒頭部 (ヨーロッパ人のインド観光)
 第1部 (仏陀誕生)
 第2部 (仏陀の成長とゴーパーとの出会い)
 第3部 (ゴーパーの婿選び競技大会)
 第4部 (仏陀の結婚、四苦の発見)
 第5部 (大いなる別離)
 第6部 (仏陀の悟りと伝道、ゴーパーの追跡)
 と言う流れで、ある程度仏陀伝説を換骨奪胎させて駆け足で見せていく。第5部までは仏典の描写にそれなりに忠実ながら(*6)、第6部で仏陀の妻ゴーパーが夫探しの旅に出ると言うオリジナル展開が追加されて、お話をより劇的に脚色していく。
 冒頭のドキュメンタリー風なインド観光映像他、本編でもロケーション撮影が多く、白黒時代はセット撮影が多かったと言う話に「え、そうなの? これは違うね」って返したくなってしまう。

 本編はわりとしっかりした史劇を作ろうとしているようで、いわゆる神話的逸話(*7)は全部カットされており、超常現象的なのは唯一、息を引き取ったマーヤー(*8)が空から降ってくる花に埋もれて消え去るシーンのみになっている(*9)。

 監督を務めた1人は、1876年帝政ドイツはバイエルン王国のミュンヘンに生まれたフランツ・オーステン。
 写真技師の父親について写真技術を仕込まれ、弟ペーターとともに旅行映画会社を設立してショートドキュメンタリーの制作を開始。1911年には劇映画監督デビュー作となる「Erna Valeska」を公開するも、1914年の第1次世界大戦勃発により映画製作の中断を余儀なくされ、特派員や兵士として戦争参加した後、戦後のミュンヘンにてサイレント映画制作を再会して監督作を次々発表する。
 この頃、インド伝統演劇の劇団指揮をしていたインド人弁護士ヒマンシュ・ラーイから本作の企画を持ち込まれ、インド側の莫大な援助によってドイツ人クルーとともにボンベイに招かれて映画撮影を開始(*10)するが、本作はインドではウケが悪く大きな損失を生んでしまう。米国でもヒットを生み出せなかったそうだけど、ヴァイマル共和政のドイツでは大いに絶賛され、続いてインド史劇2本(*11)を順次監督・公開。その後もインドでの映画製作が続けられ、サイレント時代の名作を次々と生み出していく。
 しかし第2次世界大戦の勃発により、ナチス党員だったオーステンは「Kangan」撮影中に英国人警察により逮捕され(*12)、40年(または戦後とも)に釈放されたもののドイツ帰国後に監督業に着くことはなくなり、映画会社"バヴァリア"(*13)の人事マネージャーとして働いていたと言う。
 1956年、西ドイツのバイエルン州バート・アイビリングにて79歳で物故されている。

 フランツ・オーステンとともに監督を務め、製作兼主役シッダールタ役を務めたのは、1892年オリッサ州カタックのベンガル系貴族家系に生まれたヒマンシュ・ラーイ。
 カルカッタ(現コルカタ)で法律の学位を取得後ロンドンに渡り、弁護士をしながら脚本家ニーランジャン・パール(*14)の舞台演劇に参加。その後、フランツ・オーステンに企画を持ち込んでボンベイに招き、本作でプロデューサー&主演俳優デビューする。続く印独合作「Shiraz」「南国千一夜(Prapancha Pash / A Throw of Dice)」でも製作・主演を手掛け、後者の製作中にドイツ時代から知り合っていた女優デーヴィカー・ラーニーと結婚。ドイツでナチスが台頭して来たことから活動拠点をインドのみに定めて帰国すると、1934年に夫婦で映画会社ボンベイ・トーキーズを設立して、英独の映画技術をインドに導入。以後、プロデューサーとして活躍していく。
 第2次世界大戦の勃発によって、英独両国の映画スタッフが活動自粛に追いやられると、その補充と映画製作の続行からくる過労と精神衰弱によって、1940年にボンベイにて物故。享年48歳。以後、会社はデーヴィカーと技術担当のサシャダール・ムケルジー(名優アショク・クマールの義兄)との対立で二分されていくことになる。

 仏陀の妻ゴーピー役で映画デビューしたのは、1912年生まれのシーター・デヴィ(*15)。
 本作以後、フランツ・オーステン監督&ヒマンシュ・ラーイ製作の映画の常連女優としてサイレント時代の人気スターとなっていく。しかし、トーキー映画には移行せず1930年の「Bharat Ramani / The Enchantress of India」「Kal Parinaya / Fatal Marriage」をもって女優引退。
 その後の1983年、71歳で物故されている。

 たおやか系美少女として描かれるゴーピー(*16)とシッダールタのなれそめが、両者の一目惚れとシッダールタの積極的アプローチで展開していく所なんかは「えええ! なんかイメージと違う!」とか思ってしまうのは、日本の仏教イメージに引きずられているせいか、手塚マンガ「ブッダ」の影響か。
 大人しいヒロイン然としているゴーピーも、各種仏典の伝える所では、シッダールタの妻探しのためにカピラヴァストゥを訪れた時に他の候補者が目を伏せて王子から贈物を受け取ったのに対し、ハッキリ顔を合わせた上で「私にはそれだけの値打ちしかないのですか」とシッダールタを問いただしたと言うし、結婚式では伝統に逆らって顔を隠さず素顔のままで式に臨んだとか言う、かなり毅然とした人として書かれてるけども。

 劇中、単純な綺麗所ヒロインとして唯々諾々と仏陀との結婚〜別離を演じていた無個性なゴーピーが、第6部で突然言い寄ってきたデーヴァダッタに逆らい、出家したまま戻らない夫を探しに単身旅に出るオリジナル展開は「おお!」となる逆転劇で、映画構造として面白い(*17)。同時に仏陀の悟りと説法の旅が描かれるとは言え、ここだけ完全にゴーピーが主役になり変わっていく、彼女のキャラの強さも注目したい所(*18)。
 なんとなく、往年のすれ違い恋愛劇を彷彿とさせるゴーピーと仏陀の遍歴が、両者の邂逅によって幕を閉じるシークエンスは、黄金パターンとは言えうまいこと構成したなあ…と感心しきりですわ(*19)。日本でも仏陀関連の物語を作るときは、ステレオタイプなインドイメージに引きずられることなく、ここまで色々工夫して作っていきたいモンですネ!


「亜細亜の光」を一言で斬る!
・冒頭のインド観光映像に映り込む当時の観光地の大量のインド人たち。あいかわらず大量のカメラ目線で仁王立ちしてくれてますな。

2017.8.19.

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*1 漢訳名 浄飯王。シャーキャ族=釈迦族の主城カピラヴァストゥ(位置については諸説あり詳細不明。おおむね現在のネパールとインドの国境付近とされ、両国間でその所在論争が激しく行なわれている)の城主。仏陀成道の5年後に没したとされる。

*2 漢訳名 摩耶夫人。コーリヤ族出身。シュッドーダナ王と結婚後、B.C.624〜B.C.463年のどこか(日付も含めて諸説あり)で後の仏陀となるシッダールタを出産。その7日後に没したとされる。その名前は固有名詞ではなく、"母"を意味する一般名詞ではと言う説もある。





*3 正確に言えば、ヴァイマル共和政ミュンヘン王国+イギリス領インド帝国の合作。
*4 本作は10月公開作。
*5 当時は、ドイツ映画として宣伝されていたそう。これ以前に、イベント上映と思われる「バートラハリー王」の上映記録が発見されているとか。
*6 細かい所は色々に改変されているけども。
*7 マーヤーの受胎告知の白象の夢、腋から産まれる仏陀、産まれた直後の仏陀の歩行および「天上天下唯我独尊」の発声、仏陀の悟りを邪魔しようとするマーラーたち…といった部分。
*8 劇中では出産直後になっていたけど。
*9 神話的仏陀映画を見たければ、是非93年の英仏合作映画「リトル・ブッダ」を見ましょう。うん。
*10 エキストラの多くはジャイプールのマハラジャの協力で集まり、撮影はラホールで行なわれたとか。
*11 28年(または29年)の「Shiraz(シーラーズ)」と、29年の「南国千一夜(Prapancha Pash / A Throw of Dice)」。
*12 その後、映画はインド人たちの手で完成させ1939年に公開された。
*13 ドイツ時代に働いていた映画会社"エメルカ"から独立した会社。
*14 本作でも脚本を担当している。
*15 生誕名ルネー・スミス。本作撮影時は13〜14才頃ってことなのネ!!
*16 仏典によっては、名前をゴーパー、ヤショーダラー、ヤショーヴァティー、バッダカッチャーナーともされ一定しない。
 さらに出家前のシッダールタの妃は彼女を含めて3人だったとする仏典もあリ、こちらも名前は一定しない。
*17 王妃がそんな一人で放浪旅なんてできるの? って話はおいといて。
*18 その分、仏陀の悟りがあっさりしており、彼を誘惑する悪魔は、幸せな結婚生活を初めとした過去の記憶として描かれる事になる。
*19 話を締めるための措置だろうけど。