インド映画夜話

僕の名はパリエルム・ペルマール (Pariyerum Perumal) 2018年 154分
主演 カティル & アナンディ
監督/脚本 マーリ・セルヴァラージ
"抑圧される者の、魂の叫びを聴け。"




 2005年。
 タミル・ナードゥ州ティルネルヴェーリ近郊の村プリヤングラムの青年パリエルム・ペルマール(通称パリヤン)は、被抑圧層出身ながらティルネルヴェーリ法科大学へ進学する。
 「アンベードガル博士のような弁護士になる」を目標に、慣れない英語での講義に四苦八苦しながら、その英語の勉強をきっかけに同級生アーナンドやジョー(本名ジョティ・マハラクシュミー)と仲良くなり、大学生活を楽しんでいくようになって行く。

 3年生になったある日、ジョーの姉の結婚式の招待状を渡されたパリヤンは、気後れしながらも"ジョーの、大学での唯一の招待客"として結婚式場に入っていった。そこで、「あっちで話そう」と言うジョーの父親に呼ばれた彼は、ジョーのいない物置部屋でその親戚たちからの襲撃を受け、それを一旦止めた父親から「頼む。君はこのままここにいると、あいつらに殺されてしまうぞ。娘もだ。娘のためにも、今後はあの子と仲良くなるのはやめてくれ」と言い放たれる…!!


挿入歌 Naan Yaar (僕は誰?)

*ジョーが出ていく部屋、1つだけの机と1つだけの椅子に座る主人公、歌と共に入ってくる殺された愛犬、そこに重ねられるたくさんの動物イメージ…!!
 本作プロデューサー パ・ランジットの監督作にも多用される抑圧側の叫びを歌に乗せるラップ調の音楽の中で、アンベードガル博士によって謳われる仏教における平等を表す象徴色「青」に身を包む犬や人物たちの走る姿に仮託されたものとは…!!


 カーストの異なる恋愛に対するインド社会の不条理の猛威を描く、マーリ・セルヴァラージの監督デビュー作となった傑作。

 米国、フランスでも公開されているようで、日本では2020年のIMW(インディアン・ムービー・ウィーク)にて「僕の名はパリエルム・ペルマール」の邦題で上映。のちに、SpaceboxによるIMO(インディアン ムービー オンライン)にて配信。2021年にDVDも発売され、同年には鹿児島のガーデンズシネマにて3回限定公開。2024年のシネ・リーブル池袋のゴールデンウィークインド映画祭で上映されている。

 タミルの地方都市を舞台に、そこに息づくカースト差別の実態、異カースト同士が混ざり合って暮らす生活空間の中に潜む理不尽な現実の姿、職業差別、名誉殺人が許容される異様さを、さまざまな映像的象徴によって描き出す力作。
 本作で監督デビューした被抑圧層出身のマーリ・セルヴァラージが、実際に通っていた母校ティルネルヴェーリ法科大学を舞台にして描くその様はまさに衝撃であり、重く、陰鬱としたインド社会の1つの実態をあらわにする。

 常に手ブレのように揺れ動くカメラアングルは、不安定なインド社会の価値観の揺らぎ、人々の不安、人の死が身近なものである現実の無常感を煽るかのよう(*1)。本作プロデューサーのパ・ランジット(*2)の過去の監督作と共鳴するかのような、被抑圧層の叫びをラップに託した挿入歌がその悲痛さ・必死さ・無情さを倍増させて行く。
 主人公が目指しているように監督自身も当初は弁護士志望だったと言うけれど、カースト差別による抑圧に対して抵抗し変革を促そうとしたアンベードガル博士(*3)を目標として、知と法によってこそ社会は変革すると断言するインド人たちの力強さたるや、もう…。その主人公始め抑圧される側の必死の努力を無にするような現実の頑なさ、力と暴力によって人を従わせようとする"抑圧する側"こそが変わるべきだと叫ぶ、その悲痛さをどこまで・いつまで木霊させていかねばならないのか…。カーストがあること、そこに起因する差別を肯定することを前提に回る社会を変革する事は、いまなお解決の道が見えないのがなんとも苦しい。数千年に渡りさまざまな知を集積しているインドをして、それらを越えて変革をもたらす答えは、なお暗中模索と言う現実…。

 とは言え、本作の魅力はそれだけに固執してるわけではない。
 後半の差別の実態と恐怖を糾弾する物語を効果的に見せるための、前半の法科大学での大学生たちの和気藹々ぶり、その裏で日々起こるいじめ、名誉殺人、先輩たちや教授たちの頑迷さ…そう言った地方都市の人々の暮らしの明暗を鮮やかな対比として見せて行く様は、07年の衝撃作「Kalloori(カレッジ)」にも通じるような語り口。タミル地方の日常の明暗を描く本作の映画構造にあって、唯一テルグ人がキャストされたヒロイン ジョー演じるアーナンディの存在感も、意図的な構図ってやつでしょか。ヒロインをはじめとして、劇中に登場するカーストを気にせずに主人公と親しくなる何人かの登場人物たちは、ある程度この映画における希望ではあるものの、それもまた「知らないからこそ」「持てる者であるが故に持たざる者の胸中を理解しないからこそ」優しくいられるのかもしれない、って部分も見えてくると、じゃあ我が身はどうなんだろうと振り返りたくはなるよねえ…。

 あと気になる点といえば、カーストが異なる人を「同じ人と思ってない」どころか「人と思ってない」様子が垣間見える差別の実態を見せつけられてくると、人を差別するときに「犬のよう」とか動物に例えるその様は、考えてるよりももっと本気で「動物と同じだと思っている」「人と動物の間に明確な命の軽重がある」ようにも感じられてしまう。そもそもから日常を生き残る事に過酷さが付いて回る現代にあって、より「人でないもの」への攻撃が強くなるからこそ、インド映画における動物の扱いがあんななのかな…とも思えてしまうと…ね。
 そう思えてくればくるほど、本作最初のソングシーンである黒犬カルッピの葬儀で村中が嘆き、村人と同じ扱いでカルッピを弔っているシーンもまた色々な意味合いが重ねられているようにも見えてくる。映画後半、青い姿で駆ける主人公パリエルムとカルッピに重ねられる感情的爆発、未来への、自分たちへの、社会への叫びの姿は、主人公と犬をともに同じ青(*4)で染めて走る画面によってあらゆる意味を含ませた救済と諦観と怒りを表すものか。
 ラストシーンの2つのカップ(*5)に注がれたチャイの「白」と「黒」。そこに吹き付けられるヒロインの花飾り。「さあ、読み込んでくれ!」と言わんばかりの画面構成で終幕となるような映像的意図にあって、「無垢であるが故に無知」な立ち位置にいるヒロインが、学び続けるために初登校する初登場シーンにおいて「青い衣裳」で現れた事もまた、1つの象徴であり希望でありましょうか…?

挿入歌 Pottakattil Poovaasam (荒野にただよう花の香り)


受賞歴
2018 Behindwoods Gold Medal 監督賞・主演男優賞(カティル)・プロデューサー賞(パ・ランジット)
2018 Chennai International Film Festival タミル語映画注目作品賞
2019 Ananda Vikatan Cinema Awards 監督賞・コメディ男優賞(ヨギ・バーブ)・音楽監督賞(サントーシュ・ナラヤナン)・原案賞(マーリ・セルヴァラージ)
2019 ノルウェー Norway Tamil Film Festival Awards 作品賞・音楽監督賞(サントーシュ・ナラヤナン)
2019 Edison Awaeds 作品賞
2019 Toulouse Indian Film Festival インド批評家協会デビュー賞(マーリ・セルヴァラージ)
2019 SIIMA(South Indian International Movie Awards) 作品賞・審査員特別賞
2019 Filmfare Awards South タミル語映画作品賞
2019 Galatta Debutant Awards 監督デビュー賞・台本ライターデビュー賞


「僕の名はパリエルム・ペルマール」を一言で斬る!
・差別を受ける側としての苦痛を味わう主人公が、なお父親の職業に関して自分の中に『恥』とする概念を持っていた、と言う姿もまた…世の中の、人の中の複雑さか…。

2021.8.14.
2024.4.13.追記

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*1 ただの技術的制約、ってやつかもですが。
*2 この人も、被抑圧層出身でインドにおける抑圧の実態をテーマにした監督作を公開させている。
*3 被抑圧層出身ながらインド初の法務大臣となり、差別撤廃運動を推進した人物!
*4 アンベードカル博士が提唱する、差別撤廃運動のシンボルカラー!
*5 カースト別に用意されたもの…。