インド映画夜話

響け! 情熱のムリダンガム (Sarvam Thaala Mayam) 2018年 130分
主演 G. V. プラカーシュ・クマール & アパルナー・バーラムラリ
監督/脚本 ラージーヴ・メーナン
"世界は、リズムで満ちている"




 チェンナイにて、両面太鼓ムリダンガム職人の家に生まれたピーター・ジョンソンは、大のヴィジャイ映画ファン。
 ヴィジャイ主演作の応援のためなら、大学のテストもそっちのけにファンクラブの友人たちと映画館に乗り込んでいく無軌道な青年だったが、そのファン活中に大怪我負って看護学生サラの世話になってから、彼女を追い回し口説こうと必死になる
「でも、貴方はヴィジャイが好き。私はドイツ語を学んで医療に従事したい。貴方は? 年2回ヴィジャイ映画初日を祝う以外、残り363日は何してるの?」

 そんなある日、父親の仕事のために有名なムリダンガム奏者である人間国宝ヴェンブ・アイヤルに父の太鼓を届けに行ったピーターは、そのムリダンガムから紡ぎ出されるいままで聞いたことのない音楽に一瞬で魅了されてしまう…!!
 その日から、父の仕事場でムリダンガムの構造を勉強し、どうにかしてあの音色を再現しようとするピーターは、ついにヴェンブ邸に乗り込んで直接教えてもらおうとするものの、邸の人々は「あのジョンソンの息子か」と相手にもせずに、門前払いしてくるのだった…


挿入歌 Sarvam Thaala Mayam (世界はリズムであふれている)

*日本語訳は、パンフレットからの引用になります。詳しくは、是非ともパンフレットを確認しましょう!


 タイトルは、タミル語(*1)で「世界はリズムで満ちている」。
 撮影監督出身のラージーヴ・メーナンが、00年の「Kandukondain Kandukondain(見つけたよ、見つけたの)」から19年ぶりに製作した映画(*2)。古典楽器ムリダンガムを通した芸術系映画の芸道ものながら、一般層にもヒットして注目を集める。

 2018年の東京国際映画祭にて、原題の日本語訳タイトル「世界はリズムで満ちている」でプレミア上映。翌19年になって、インド本国と同日公開でオーストラリア、カナダ、英国、クウェート、シンガポール、アラブでも公開されたよう。
 日本では、この映画に惚れ込み再上映を強く希望していた東京の南インド料理店なんどりが、監督からの激励を受けて自ら配給に名乗り出て22年にミニシアターを中心に一般公開!(DVDも発売) その経緯、配給活動が大きく報じられてもいました。23年のピーター・バラカン選定の音楽映画祭、同年の蓼科高原映画祭でも上映。翌2024年には群馬県の高崎電気館の「インド映画特集2024」、神奈川県の桜ヶ丘駅前の第2回「桜の木の下映画会」、逗子海岸映画祭でも上映。

 南インドにおける古典音楽(カルナータカ音楽)に魅せられた青年を主人公に、その眠る才能の開花と共に露わになる、伝統文化に横たわる様々な障壁、差別、芸術文化の孤立具合、一般生活との乖離具合、そうした数々の問題意識をも描く社会派映画の1本……ではあるんだけど、そのボリューム満点要素に反してそんなに堅苦しい映画というわけでもなく、物語構造的にはかなりエンタメ要素も入ってきて、メディア批判やタミル映画らしいIT技術の活用・民意尊重の精神も結構あからさまに表現されている娯楽作品でもある。

 なにはなくとも、劇中で演奏されるムリダンガムを始めとした古典楽器が奏でるリズムの狂騒のなんと心踊り、音楽の波に身を浸す快感に満ち満ちた音作り・演技・撮影技法がなされた映画でありましょうか。
 そう思えるように仕向けられる数々の演出を承知であっても、それでもなおその音楽に自然に身体が反応してしまうA・R・ラフマーンが紡ぎ出す心地よきリズム、それに説得力をもたらす音楽関係者からキャスティングされたり、それ周囲の仕事をしてきた人々が演じる演奏の1つ1つを長回しカットで見せていく「ほら、ちゃんと演奏も見せていきますよ。彼の演奏スゴイでしょ!」って言ってくるような自信に満ちた画作りに、こちらもただその音楽に身を浸したくなっていきますわ。

 最近になるまで、古典音楽界において評価対象にされてこなかったと言う打楽器奏者の地位向上という面を見せながらも、自分のスタイルを崩されることを嫌い我が道を行く師匠ヴェンブ・アイヤルに、それでもなお心酔し、彼から弟子入りを否定されて「身分を考えろ」とまで言われてしまう主人公ピーターの出自(*3)を問題視されてもなお、すでにハイカーストのみの文化である古典音楽に触れたことで、その壁をぶち壊すほどに彼の中に眠っていた才能が振動し、暴走し、それでいて周りが認めざるを得ないほどその実力を開花・成長させて行くサクセスストーリーも小気味いいけれど、映画冒頭からしっかり「旧来的な価値観から動こうとしない師匠」と「面白おかしいネタとして音楽を扱いながら社会改革の目は鋭いTV業界」という対立構造が、単純な白黒でなくそれぞれの価値観のぶつかり合い混ざり合って行く総合的な意識改革を促す様子を描いて行く物語構造も秀逸。
 ハイカーストにまつわる数々の儀式、衣食住の規定を見せてピーターのそれとは生活習慣から身体作りから知識内容から違うという主張を見せつつも、聖紐を首から垂らすが如くピーターも十字架を首から垂らしてして、師匠からもらった木の実(*4)を後に十字架の代わりに下げてる所なんかも、規定は規定としてその論理を受け入れつつも、そのアレンジ具合、その論理の受け止め方は人それぞれの白と黒の間の何段階ものグレーゾーンが存在することを見せつける。
 皮革製作業には「生物の死」「血と言う汚れ」が付いて回るが故にその業者となる人々は差別対象になっていながら、その業者が作った皮革製品そのものには不浄の論理がついてこないと言う矛盾も、そう言ったグレーゾーンを意識させる境界上に現れる結びつきか、あるいは壊されるべき壁の破片か。

 とにかく、見ていて色々身につまされる…と言うにはおこがましい身なんですが…のは、ピーターの一件無軌道な行動力であり、学びの向上心であり、周りの人間から貪欲に自信の行く道を探り出す探究心の発露ですわ。
 インド中を旅しながらインド各地に根付く伝統音楽に触れて行くその旅路(*5)、描かれてないだけで実際にやろうと思えば相当な苦労が予想されるわけだけど、そこを乗り越える行動力が彼にあることは、冒頭でのヴィジャイに捧げる推し活の様子ですでに説明されているほどにエネルギーを蓄えた若者であるわけで。そこで旅に出ていけるからこその主人公であり、世界が語りかけてくるリズムをつかめるセンスを発揮するんだよなあ…とつくづく納得してしまう私。
 私なんか、師匠と言える人何人かいましたけど(*6)、とにかく自分の興味の向いた方向にだけ個人的に好き勝手に走り回って人の言うことなんざ聞いてなかったもんなあ。そりゃ世界も語りかけてきませんわ。あの、アドレナリンがドバドバ出てくる感覚に入った時の高揚感は、しばらく感じていないものなあ。
 インドの音楽もの・芸術もの映画によく出てくる「芸術の深化か、一般生活者としての常識か」の対立はこの映画にも出てくるとは言え、ムリダンガムに愛された青年としての主人公の特異性は様々な所で伏線として登場し、発揮され、増幅されて行く。その尽きせぬ才能のありよう、芸術の大元にある天啓と言う概念から始まる才能論なり芸術論は、他の数多ある芸道ものと同じものでありつつも、そこで音に反応できる身体が「これを見てる貴方にもあるでしょ?」 と問われてるかのようにも感じられる軽妙な語り口が、そうした対立構造を越えた軽やかな希望を身体に染み込ませて行くよう。このリズムを聞いて身体がうずいたのなら、もう世界はなにかを語り始めているって事…だったらいいんだけどなあ。



挿入歌 Dingu Dongu (我々の時代はいつ来る?)

*日本語訳は、パンフレットからの引用になります。詳しくは、是非ともパンフレットを確認しましょう!



「響け! 情熱のムリダンガム」を一言で斬る!
・絵を習ってる時、『老舗の料亭なんか、串焼き失敗したらその度に師匠がそいつの腕に串ぶっさすんだぞ』って(笑いながら)脅されたことあるけど、手を動かす技術を学ぶ人の手を攻撃する教え方、良くないと思いマッス!!(*7)

2023.9.1.
2024.2.23.追記
2024.3.30.追記

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*1 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。スリランカとシンガポールの公用語の1つでもある。
*2 本作が3作目の監督作。
*3 非ヒンドゥーの改宗キリスト教徒で、その先祖は差別対象である指定カーストの家系。
*4 実際は、ピーターが触れて"汚れた"からいらなくなったってことなんだろうけども…映画前半は、師匠始めヴェンブ邸の人々は極力ピーターに触れないように振る舞ってるし、触れる時は服の上にしか触れていなかった。
*5 カシミール、パンジャーブ、ラジャスターン、ケーララ、北部州(ざっくり)は初見でわかった! この時の音楽と映像のシンクロの美しさったらもう!!
*6 向こうはそう思ってないだろうけど。

*7 美術道具もわりと攻撃力高めなんスよ。ウン。