インド映画夜話

Sita 2019年 162分
主演 カージャル・アガルワール & ベラムコンダ・スリーニーヴァス & ソヌー・スード
監督/脚本 テージャ
"現代のシーターは陰謀・策謀・駆け引きに満たされている"
"ラーマはそのことに気づけないのだ…"




 4才のラーム(本名ラグラーム)は、伯母からの虐待で精神を病んでしまい、伯父アナンド・モーハンによって精神病治療のためにブータンの寺院へ預けられた。
「僕に家族がいないから、ここに残されるの?」
「…そんな事はない。そんな事はないさ。あとで君の従妹のシーターがやって来て君の家族になってくれる。そう…今、シーターは君より小さいけど、彼女の背丈がこれくらい大きくなったら、その時君を助けに来てくれるから…」

 それから20年。
 ハイデラバードのスラム街を一掃してビジネス街建設計画を進める冷酷傲慢な実業家のV(ヴァサンタバダ)・シーター・マハーラクシュミーは、適当な書面で協力を仰いだMLA(州議会員)のバサヴァラージュに目をつけられ、契約条件を盾に「俺はお前を1ヶ月間、妻にすると決めた」と一方的に迫られる。
 自分の利益以外目に入らないシーターと自分の欲望を阻む者を物理的に排除するバサヴァラージュの対立は深まる一方だったが、ついにはバサヴァラージュの根回しよってシーターは25カロール(=2億5千万ルピー)もの返済金を支払うか、バサヴァラージュのものになるのかの2択を迫られる事態に…!
 そこに、シーターの父アナンド・モーハン死去の一報が届く。葬儀の悲しみもそこそこにシーターは父の遺産相続手続きを早急に求め、500億ルピーにものぼる莫大な遺産で返済問題が解決すると喜ぶのだったが、父の遺言に従う相続弁護人はマンガルスートラ(既婚女性がつけるネックレス)を彼女の相続品として渡したのみで、そのほかの遺産の相続権は「ブータンにいるラグラーム」に渡されていると聞かされて仰天してしまう…!!


挿入歌 Nijamena

*ブータンの寺院に、ラームを訪ねについにシーターが来たの図。
 彼女の到来を待ちわびていた寺院の人々の歓喜、その事情を何も知らないまま振り回されるシーターとの対比が鮮やかな映像だけど……ここ、カンボジアのアンコールワットと違う?


 撮影監督出身のテージャ監督による、17本目の監督作となるテルグ語(*1)映画。
 タイトルのアルファベット表記は「Seetha」とも。

 後に、タミル語(*2)吹替版「It's My Life」、ヒンディー語(*3)吹替版「Sita Ram」、マラヤーラム語(*4)吹替版「Janaki Nayakan」も公開。
 インド本国より1日早く米国でも公開されているよう。

 叙事詩「ラーマーヤナ」構造を取り入れつつ、冷酷非情な現代のシーターを主役に、忙しない都会人VS素朴な寺院暮らしのラーム、金勘定しか知らないセレブVS人情で動くスラム育ちの庶民という分かりやすい対立構図の衝突を通して、シーターが本当の愛に目覚めるまでを描くマサーラー映画。
 いろんな要素が詰め込まれるいつも通りのせわしない物語展開ながら、英雄ラーマにも悪魔ラーヴァナにも屈せず自らの信じる道を進み続ける現代のシーターの強さをこそ描く映画になってる感じで、マサーラー映画で英雄と悪役に翻弄されるはずのヒロインをメインに持ってきてしっちゃかめっちゃかに話をかき回す痛快娯楽作になってる感じ。
 ただまあ、それぞれのシークエンス(特にコメディ)はいつも以上に冗長。感情表現も唐突感やご都合展開的なものが多く、その辺がせっかく嫌味なビジネスマン演じるカージャルのあまり見たことない表情芝居とかとうまく噛み合ってないのが、評判の悪さに繋がってしまった映画でありましょうか。
 撮影そのものは綺麗で印象的なカット繋ぎもあってカッコ良く、ブータンの寺院という設定で出て来るアンコール・ワットロケの美しさ(*5)は「おお! インド人がアンコール・ワットを撮ると、こう言う画になるのね!!」って侘しい緑の世界の印象的なこと(*6)。

 本作の監督&脚本を担当したのは、1966年マドラス州マドラス(*7)に生まれたテージャ(生誕名ジャスティ・ダルマ・テージャ。*8)。
 父親が東京を拠点にする実業家兼輸出業者で、子供の頃は裕福な生活をしていたと言うものの、父親の会社が大きな損失を出して両親が死去してしまうと、子供ながら家を出て働きに出るようになったと言う。
 あらゆる仕事に従事する中で、タミル語映画&TV業界で照明アシスタントの仕事についたのを足がかりに、映画監督兼撮影監督のラヴィカント・ナーガイチやW・B・ラーオを師事してカメラマンの仕事に従事。ナショナルジオグラフィック用のドキュメンタリー撮影などを担当していたそうな。
 その後、ハイデラバードのラモジ・フィルムシティに移住。92年のヒンディー語映画「Raat(夜)」で撮影監督デビューして、ヒンディー語・テルグ語映画で活躍。低予算でも映画制作が可能な環境を利用して、00年のテルグ語映画「Chitram(絵)」で監督&原案&脚本&台本デビュー。その大ヒットは、テルグ語映画界のニューエイジ・ロマンス映画と評された。翌01年には「Family Circus(ファミリー・サーカス)」「Nuvvu Nenu」「Yeh Dil(この心)」の3本もの監督作を公開させて、うち「Nuvvu Nenu」でフィルムフェア・サウスのテルグ語映画監督賞その他多数の映画賞を獲得する。続く02年には、自身の監督作「Jayam(勝利)」でプロデューサーデビュー(*9)。以降、多くのテルグスターたちを発掘しつつ、テルグ語映画界にて監督兼脚本家兼プロデューサーとして活躍中。
 映画製作の他に、配給会社"チトラム・ムービーズ"を設立させて「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(Harry Potter and the Order of the Phoenix)」「スパイダーマン2(Spider-Man 2)」などなどの外国映画のテルグ語圏での配給もしているよう。

 マサーラー映画構造を踏襲して、素朴純情ながら世間知らずで怪力&卓越した記憶力を持つヒーロー ラーム演じるベラムコンダ・スリーニーヴァスの見せ場をこれでもかとアピールする映画ながら、物語的な主役は完全にカージャル演じるシーターの方。
 自然児でありながら薬やチャイの時間を守らないと暴れ出すめんどくさいターザン役のラームに対して、現代人代表として世間の厳しさや人間関係の複雑さを教え込みながら利用しようとするシーターのしたたかさ・金勘定をまず第1に考えるがために色々と面倒くさい状況に落とし込まれる因果応報が、嫌味でありながら妙な面白さを強調してくれて、二度見三度見したくなるクセになる魅力を醸し出す。
 当初は、叙事詩と違って庶民の敵のようなお高く止まったセレブウーマンとして描かれるシーターが、女となれば見境なくモノにしようと迫る野獣のような政治家や、意味不明な能力の高さを見せつける亡き父親お気に入りの野生児に振り回され、わりとシャレにならない仕打ちを受け続ける中で、それでも主導権を主張し、自分でなんとか事態を好転させようと動き回るバイタリティを見せるのは、叙事詩に見える女性蔑視への痛烈なカウンターパンチでありましょうか。
 ま、後半になればなるほど、シーター1人では解決できないほどの困難が次々に押し寄せてきて、ラームをはじめとする小馬鹿にしていたスラム住みの庶民たちに助けられる事が増えて来るんだけども。
 ラームの背景をめぐるどんでん返しもそこそこの効果を与えてくれるけど、よりシーターと父親の対立具合が強調されているとその効果も倍増していたかな…と思わないでもない。ま、ベラムコンダ演じるラームを活躍させるために、家族劇と悪徳政治家仕置譚の2つの物語の流れが中途半端に融合して風呂敷をうまく畳めてない感じはする。
 もっと、密林の中で動物たちの力を借りて問題を解決するラームの姿とか、そんなど田舎の中で右往左往するファッショナブルな都会人を気取るシーターを見てみたかったなあ…って感じだけど、最後の最後までゲスい攻撃を続けてくるソヌー演じるバサヴァラージュの外道っぷり、シーターに迫る気持ち悪さは迫力満点すぎて、そっちのインパクトが強烈に残る1本でもありますわ。



挿入歌 Bull Reddy

*ゲスト出演で踊ってるのは、主にテルグ語・パンジャーブ語(西インド パンジャーブ州の公用語)映画界で活躍している女優パヤル・ラージプート。



「Sita」を一言で斬る!
・インドの女性保護法で、(婦警のいない警察署では)日没後〜日の出前まで女性を逮捕または投獄できない、って法律ホントにあるの?(*10)

2023.12.15.

戻る

*1 南インド アーンドラ・プラデーシュ州とテランガーナー州の公用語。
*2 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。スリランカとシンガポールの公用語の1つでもある。
*3 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*4 南インド ケーララ州とラクシャディープ連邦直轄領の公用語。
*5 実際、どこまでが現地ロケなのかはわかりませんけど。
*6 故に、余計になんでブータンと言う設定にしたのか気になるけど、さ…。幸福の国で、幸福に満ちた主人公の成長を強調するつもりだったのか…な?
*7 現タミル・ナードゥ州都チェンナイ。
*8 長じて、反カースト・反宗教・反地域差別を表明するため本名から名字を消去するようになる。
*9 この映画でも、CineMAA監督賞他多数の映画賞を授与されている。


*10 …まあ、警察署内での性暴行もよく聞く話らしいしなあ…インド。