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Swarnakamalam 1988年 146分(143分とも)
主演 ヴェンカテーシュ & バーヌプリヤー
監督/脚本 K・ヴィシュワナート
"足に咲く黄金の蓮は、恩寵か、はたまた束縛かー"
石像の中からも、楽の音は響き渡る。
この国で生まれし全ての芸術は、至高の主が生み出せしもの。足を飾る金の蓮は、主が施す救済を生み出す黄金。その体験は真であり、シヴァこそは美であるー
古典舞踊クチプディの大家ヴェーダンタム・シェーシェンドラ・サルマーは、その名声遥かに高いながらも生活保護も受けられず貧しい生活を強いられ、娘2人サーヴィトリとミーナクシー(通称ミーナ)を評判の古典音楽奏者兼歌手と古典舞踏家に育てながら、学校へ通わせることもできないまま。寺院務めの人間ですら職員に学位を求めるこのご時世に、踊ることは好きながら自分たちの将来について悲観的になってしまうミーナクシーは、外に働きに出たいと夢見るばかり…。
最近、この家族の借家の隣の集合住宅屋上に引っ越してきた看板絵描きのチャンドゥ(本名チャンドラ・シェーカル)は、弟ティンクーと共に隣家から聞こえてくる古典歌謡に興味津々。ぎこちないながら徐々にご近所づきあいを通してミーナクシーと知り合って行くチャンドゥは、芸術に見向きもしないお役所仕事に憤慨して、自分の仕事でミーナクシーの役に立ちたいと、ミーナクシーの踊る姿を看板に描いて行くようになると同時に、外の仕事につきたいと言う彼女の希望を知るようになる。
同じ頃、サーヴィトリと長年付き合って来た男性が正式に結婚を申し込んで来て、父親の許しを得て結婚式が近所の人々を招いて開かれるが、その席で突然不躾にクチプティを踊ってくれと言われたミーナクシーは……
挿入歌 Koluvaiyunnade Devadevudu (4本指幅の月を図る神よ)
タイトルは、テルグ語(*1)で「黄金の蓮」。劇中で古典舞踏を踊る際に身につける、足輪飾りのこと。
名作「シャンカラーバラナム(Sankarabharanam)」の監督K・ヴィシュワナートの40本目の監督作。
古典芸能師範の家に生まれた女性を主人公に、廃れゆく古典芸能の現実と、それでも古典音楽に救われて行く人々の姿を描く芸道もの物語を、恋愛ものと混ぜてまとめた軟派系芸道もの映画、と言う感じの1本。
なんと言っても、劇中なんども出て来る主演バーヌプリヤーのダンスの数々の所作の美しさこそを武器とした魅力に満ち満ちた映画で、どこまで実際のクチプディ・ダンスに正確なのかはわからないけれど、きっちり古典舞踊の基礎を体に叩き込んでいることはわかる動きの1つ1つの美しさが、見ていて美しく目を惹き小気味好い。初登場シーンの足の動き、モーニングルーティーン(?)の小物を取っては置き取っては置きのBGMに合わせたテンポの良い動きで、音楽映画として役者を動かしていまっせと言う演出側の宣言も聞こえてきそう。
古典音楽、古典舞踊に一定のリスペクトは送っても、その奏者や歌手、ダンサーへの生活支援には無関心な世相を皮肉るように、主人公家族の住む長屋に住んでいる人たちもなんらかの宗教儀式に関わる技術を持っていて、本人たちは敬虔な宗教家でもあることを匂わせつつ、それが貧乏の解決にならない様をユーモアたっぷりに笑いに変換して見せて行くのも秀逸。ハイカーストの文化としての宗教儀式やそれに付随する芸術文化の社会的な立ち位置の縮図を見せられるようでもある。その中にあって、同じく芸術家気質ながら看板絵描きという庶民の仕事をしているヴェンカテーシュ演じるチャンドゥが、部外者として主人公たちに関わりつつ、その生活改善に手を貸そうとする姿も美しい。音楽と舞踊は社会的な立ち位置的には近しいパフォーマンスだけども、美術はその範疇に入らないもの、と読み解けなくもないけれど(*2)。
そんな中で、長屋の人々がチャンドゥ兄弟とのご近所付き合いを楽しそうに進めて行ったり、お互いに助け合ったりするところに、社会的な目線も意識させる要素があるのか、理想的な芸術家集団の姿を描きたいだけなのか。芸術の前に人が平等になる姿は、美しく、その聖俗併せ持つ生活スタイルの麗しいことよ。
そんな小難しい理屈を考えなくとも、踊ることを楽しむ主人公ミーナクシーの喜怒哀楽のコロコロとした変わりよう、その俊敏でキレのある手足の動きの華やかさだけで十分に映画の魅力としてしまう快活さが楽しい。公開当時20才の演じるバーヌプリヤーのきっちりした舞踏力の説得力が、未来の芸術への絶望や恋の悩みに沈む登場人物の鎮痛さを、それでもポジティブな方へと変換していく明るさを生んでいる。芸道ものであるお話の中にあって、爽やかな青春劇への比重の変換が成功している傑作でありましょうか。
そして後半注目なのが、実在のアメリカ人オリッシー・ダンサー シャロン・ローウェンの登場(*3)における外国人視点、身内以外の古典芸術の先達の視点の導入。
インドのお役所や世間がお祭りや宗教儀式の時だけしか注目しない古典舞踊の美しさ、素晴らしさを、外国人でありながらオリッシー(*4)、マニプリ(*5)、チャウ(*6)に精通して自らも舞踏家の大家をしているシャロン・ローウェンの登場によって喧伝し、世間の無関心さを糾弾する様も清々しい。生活と人生設計のために、古典舞踏家の道を辞めてホテルスタッフとしての職で生きていこうとするミーナクシーの強がりが、芸術を前にして抗うことのできない舞踏家としての血の疼きとでもいうものに感化されて行く瞬間は、静かで地味ながらそれまでの物語効果も相待って、静かな画面の中に渦巻く人の芸術で消化される感情の渦が大いに見せられるよう。その芸術に触発される渦が、ミーナとチャンドゥとの愛の渦と同調して行く様は、娯楽映画としての体裁を保つための工夫にも見えては来る終盤の展開だけども、「シャンカラーバラナム」のような滅びの美学的な視点ではなく、俗的なハッピーエンドへと走って行く本作の物語が、バーヌプリヤー演じるミーナクシーの、どこまでもポジティブでへこたれない、その人好きする性格と、そんな彼女に魅せられた周囲の協力者の配置によってもたらされたものに見えて行く、映画としての明るさも映画そのものの人気を支えるものになって行ってるようで微笑ましい1本。
挿入歌 Aakasamlo Aasala Harivullu (空に希望の虹がかかる [そんな美しい世界が祝福されますように])
受賞歴
1988 Nandi Awards 注目作品金賞・主演女優賞(バーヌプリヤー)・振付賞(スリーニーヴァス)・作詞賞(シリーベンネーラ・シータラーマ・サーストリィ)
1988 Filmfare Awards South テルグ語映画作品賞・テルグ語映画主演女優賞(バーヌプリヤー)
1988 Cinema Express Awards 作品賞・監督賞・主演女優賞(バーヌプリヤー)
「Swarnakamalam」を一言で斬る!
・インド古典舞踊の特徴がもっと分かってれば、オリッシー・ダンサーとクチプディ・ダンサーの所作の違いもわかって…くるようになるのかなあどうかなあ。
2025.10.11.
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