インド映画夜話

Aarkkariyam 2021年 126分
主演 ビジュー・メーノーン & シャラフディーン & パールワティ・ティルワート
監督/脚本 サヌ・ジョン・ヴァルゲーゼ
"どうしようもない時というのは、人生の中でままある"
"その時は…神の手に委ねるのさ"




 シャーリーはどんな時でも眠ることができる。なぜなら彼女は、神を信じているから。僕も神を信じている。でも、いつも安らかに眠れるほどには信じてはいない。特に、借金を抱えて店をたたむ時なんかは…

 コロナウイルスが蔓延する2020年のインド。
 ケーララ州コッタヤム県パラに住む元数学教師のイティ(本名イティヤヴィラ)はその朝、ロックダウン中のムンバイに住む娘シャーリーに電話を入れていた。
 そのシャーリーとローイ夫婦は、娘ソフィーをナガルコイル(タミル・ナードゥ州南西部の都市)の教会保育園に預けたまま、事業失敗の後始末に奔走している毎日。ひと段落してから、シャーリーの実家でもあるイティの家まで車でなんとか移動してきたものの、娘を迎えに行こうとする段になって州境は封鎖。さらには国内全ての外出禁止令も出る上に、近々ムンバイの会社に監査が入るために支払い期限の近づいた資金が必要だと言う。
 夫婦の困窮具合を見たイティは「この屋敷一切を売ってしまえばいい。儂はそこに建つアパートの一室に住めばいいから」と慰める…のだが、彼はローイと2人になってからひそかに彼に語り出す…「屋敷を売ることにはなんの未練もない。古いからな。ただ…台所裏に死体が埋まっているんだ。12年前から…」


挿入歌 Chiramabhayame (我が家、それは常に私たちの保護者 [それは全てが集まる私の世界の中心])


 タイトルは、マラヤーラム語(*1)で「誰が知っていようか」。
 カメラマン出身のサヌ・ジョン・ヴァルゲーゼの監督デビュー作となった、家族劇サスペンス映画。

 コロナ禍のインドの様子を描きつつ、登場人物たちの普段は心の底にしまっている不安をじわじわと描いて行く映画ながら…そこまでサイコサスペンスな展開もないし、推理もの的な舞台仕立てになるインターバル直前の告白も「おお!?」と驚かせながらもそんなにサスペンス劇にもいかない。
 10年の「Elektra(エレクトラ)」や13年の「Drishyam(ビジョン)」なんかのマラヤーラム語映画に見える、ケーララ様式の森の中の家を主な舞台とする、その家の中で錯綜する家族の様子を淡々と描く映像詩のような1本(*2)。

 12年間死体を隠し続けたイティ。金策に奔走しつつその告白に不安を募らせるローイ。ローイからは特に不安も感じてなさそうに見えながら、その裏では後悔と不安に押し潰されそうになっていたシャーリー…。
 コロナ禍の外出禁止令によって家族がバラバラになって行く不安、仕事が立ちいかなくなり借金が膨れて行く不安、娘にひた隠しにしてきた殺人事件が明るみに出る不安、過去の行いそのものへの確信のなさや自信のなさ…。静かな日常の中で同じように静かに、しかし確実に積み上がって行く不安と焦燥は、家族3人それぞれに言うに言われぬ壁を作りつつ、それでも家族同士で助け合い相互に干渉し続けて行くことでなんらかの解決策を模索して行く。
 全体が淡々とした映画なので、登場人物たちの抱える不安もそこまで過剰に描かれないし、その解決もそこまでハッキリと解決として描かれてもいない。そもそも事件らしい事件もそんなにない本編において、殺人の告白からすぐその詳細が語られて行く"隠された事件"についても、コロナ禍と対比させるかのように"なるようにしかならなかった出来事"と描かれていること自体、人生の不条理と受け取るべきか、因果応報と納得するべきか、あるいはそれこそ人間の暮らしの中の闇と恐るべきか…。バラバラでありつつも繋がり続ける家族、その家族の繋がりを分断する現実が、コロナ禍と言う時代に対応してこんな風に描かれる映画もあるのか、と感心するように見て行くのがちょうどいいのかも…しれなくもない?

 本作で監督デビューしたサヌ・ジョン・ヴァルゲーゼは、ケーララ州コッタヤム生まれ。
 トリバンドラム(*3)とハイデラバードの大学で芸術を修了後、ニュースチャンネルDDニュースで働き始める。そこで知り合った撮影監督兼映画監督のラヴィ・K・チャンドランを通じてドキュメンタリーや独立系映画のアシスタントを務めて映画界入りして、2003年のヒンディー語(*4)映画「Main Madhuri Dixit Banna Chahti Hoon(いつか、マードゥリーのように)」で撮影監督デビューする。
 以降も、CMやMV、映画など様々な映像制作でカメラマンとして活躍。タミル語(*5)映画界の名優カマル・ハーサン直々の指名で撮影監督を手がけた13年公開のタミル語&ヒンディー語同時制作映画「Vishwaroopam(偉大なる顕現)」が高く評価され、SIIMA(国際南インド映画賞)撮影賞ノミネート。業界で広く知られる人気者になって、本作で映画監督&脚本デビューする(*6)。

 本作主役3人のうち頑固親父イティを演じたのは、1970年ケーララ州トリシュール生まれのビジュー・メーノーン。
 地元の大学で商学位とMSW(ソーシャルワーク修士)を取得後、TV俳優として活躍する中で91年の「Eagle」へのノンクレジット出演を挟んで95年のマラヤーラム語映画「Puthran」でクレジットデビュー。悪役やセカンドヒーロー役で人気を得て行く中、97年の「Krishnagudiyil Oru Pranayakalathu(クリシュナグディの素敵な季節の中で)」でケーララ州映画賞の次席男優賞を獲得。以降もマラヤーラム語映画界で数々の映画賞を獲得する人気男優として活躍中。02年に、女優サムユクター・ヴァルマーと結婚して息子1人生まれているそうな。

 中盤以降の主人公となって行くローイを演じたのは、ケーララ州イェルナークラム県アルヴァ生まれのシャラフディーン(別名シャラフ・U・ディーン)。
 旅行好きが高じて地元に旅行会社を設立後、映画に興味を移して13年のマラヤーラム語&タミル語同時制作映画「Neram(時)」に端役出演して映画デビュー。16年には「Happy Wedding(ハッピー・ウェディング)」「Paavada(腰布)」の2本でアジアネット映画賞のユーモア演技賞を獲得。19年の「Neeyum Njanum(君と僕)」で主演デビューを果たし、以降もマラヤーラム語映画界で活躍中。

 全国ロックダウンに踏み切るモディ首相の放送によって家族の分断がハッキリしてしまう物語の中で、かつて「Bangalore Days(バンガロール・デイズ)」や「チャーリー(Charlie)」で軽やかにケーララ中を飛び回るヒロインを美しく演じていたパールワティが、疲れた顔をして一人娘を迎えにいけない母親を演じているのも偶然ながら象徴的というかなんというか。終始影の中にいるような主要登場人物3人の画面内での立ち位置が、余計にうちに抱える焦燥感をアピールしてくるよう。
 一時期国家的危機として世界中に報道されたインドのコロナ禍がもたらした不安の大きさが、こんな日常生活の中で渦巻いていたものかと確認するのもいいかもしれない。外の人との接触がほぼない状態で、ようやくで帰ってきた娘(イティからみれば唯一の孫)を抱き上げる嬉しさと幸福感の静かな高まりは「コロナがまだ蔓延してるのに…」とかツッコむにしても、理想と実感のこもった感情の高ぶるシーンではありましょうか。

プロモ映像 Doore Maari



「Aarkkariyam」を一言で斬る!
・ケーララの東方教会のお祈りの文句、何言ってるのかは理解できないけどお経と同じイントネーションに聞こえてしまう自分がいる…。

2022.1.21.

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*1 南インド ケーララ州の公用語。
*2 「ケーララお屋敷もの」と命名してみよう!
*3 現ケーララ州都ティルヴァナンタプラム。
*4 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*5 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。
*6 本作では、撮影監督は別の人が担当している。