Amrapali 1966年 120分 紀元前5世紀のガンガー(=ガンジス河)流域部。 広大なマガダ国の皇帝アジャータシャトルは、母后の諌めも聞かずに長年反抗し続けるヴァイシャーリー国との全面戦争を開始する。しかし敵の抵抗激しく味方は四散。矢傷を負ったまま部下ともはぐれた皇帝は、とある村の寺院にたどり着いていた。 その寺院にて、母国ヴァイシャーリーの勝利を祈っていた村の踊り子アムラパーリーは、迷い込んで来たアジャータシャトルをその人と知らず介抱する。皇帝は自分を「サニク(兵士)」と名乗って彼女と仲良くなっていき、戦勝に湧くヴァイシャーリーを共に過ごすことに…。 数日後。都では新たなヴァイシャーリー国王チャンドラセーナーを迎えて戦勝の舞踏宴が開かれていた。そこで他を圧倒する舞いを魅せたアムラパーリーは、王から賞賛されて向こう3年間の"都の娘"…王宮付き芸妓に任命され都中に祝福される。 一方、マガダ国重臣たちと連絡を取り合うアジャータシャトルは、アムラパーリーとの愛を深めつつヴァイシャーリー滞在を続けていた。王宮の彼女を訪ねるうちに王宮人たちとも顔見知りになっていく中、王宮人は彼が敵国の皇帝に似ていることを、マガダ国重臣たちは皇帝を引き止めている踊り子の抹殺もしくは誘拐を協議し始める…。 劇中の舞踏宴におけるヴィジャヤンティマーラーの古典舞踊 *戦勝に湧くヴァイシャーリーにおいて、新王チャンドラセーナーを迎えての王宮付き最高芸妓を決める舞踏宴の様子。そこで王族に比する称号を得ようと躍起になる踊り子たちの踊りに「その踊りは違う」と叫んでしまったアムラパーリーは…。 タイトルは主人公の名前。 パーリ語仏典において、古代インドのヴァイシャーリー(*1)にいたと言うナガルヴァドゥー(*2)の伝説的美女アムラパーリー(*3)を主人公にしたヒンディー語映画。 後にロシア語吹替版「Амрапали」も公開。翌1967年の米国アカデミー賞において、外国語映画賞選定作品としてインドから選出されたそうだけど、結局ノミネートされなかったそうな。 伝説では、その美貌と富でヴァイシャーリーの人々の人気を勝ち得ていたアムラパーリーは、ヴァイシャーリーに仏陀一行が来たと聞くや、貴族たちに先じて仏陀を食事に招いて貴族たちの反感を買うも、「例え街中の富を積まれようとこの権利は譲らない」と一歩も退かずに仏陀を歓待してその教えに帰依し、自分のマンゴー園を仏陀とその弟子たちの生活拠点として提供。後に正式に出家したと言う。彼女が寄進したマンゴー園のことを、仏教では天竺五精舎の1つに数え「菴羅樹園精舎」と呼ぶとか(*4)。仏門に入った彼女の美しさに弟子たちが大いに魅了されたために、仏陀や十大弟子たちが特別に弟子たちに対して説法を施したと言うからスゴい。 そんな伝説の映画化である本作は、しかし仏教思想とはほとんど関係なく映画全編がアムラパーリーと、同時代のマガダ国王アジャータシャトルとの禁じられた恋愛模様で描かれ、後半からアジャータシャトルの正体を知ったアムラパーリーの苦悩、ヴァイシャーリーの人々の怒りとアムラパーリーの失墜を描き、全てが戦乱によって荒廃するラストにようやく仏陀が(ほぼシルエットで)登場して、主人公2人がその絶望感から哲学的救済を迎えてエンドとなる。 この辺、壮大な歴史絵巻となる所を悲恋劇に落とし込んだ往年の名作「Mughal-E-Azam(偉大なるムガル)」や、シャールク主演で仏教守護の大王を描く「Asoka(大王アショーカ)」と、"ボリウッドにおける史劇映画の作り方"と言う意味では似ている。あからさまな仏教哲学が排除されてる所は、やはり娯楽映画としてはしょうがない…のかなあ? でもやっぱ仏陀に出会って人生を大きく変えることになるアムラパーリーの姿が見たかったなあ…と(*5)。 宗教思想の排除(ラストはまあ、宗教的救済の具現化そのものだけど)の代わりに(大味な)反戦が裏テーマとなり、恋愛推し、2時間で終わる上映時間や、古代インドをアピールする衣裳やアクセサリーなどは、やはり海外を意識してのことかもしれない。まあ、武器や防具はどうしてもチャチく見えてしまう所は難点ではある(*6)。 とは言え、この映画はなにはなくとも絶世の美女であるアムラパーリーの美しさを魅せる映画であり、その美しさを存分に味わう映画である。全編でほぼ胸被いと腰布だけで登場するアムラパーリー役のヴィジャヤンティマーラーの快活さ、妖艶さ、可愛さがこれでもかと演出されているのを見れば「ああ、これはヴィジャヤンティマーラーのプロモ映画でもあるのかなあ」と思えてくる。イイゾもっとやれ!w (*7) その主役アムラパーリーを演じたヴィジャヤンティマーラー(・ラーマン。結婚後はバーリ姓)は、50〜60年代にかけて活躍した大女優にしてインド映画を代表するスターの一人。バラタナティヤム(*8)ダンサーであり、カルナティク(*9)歌手、振付師、政治家でもある。 1936年の英領インド マドラス(現タミル・ナードゥ)州トリプリカーネ近郊に生まれ、父はタミル系ブラーミンのM・D・ラーマン。母はタミル映画女優ヴァスンダーラ・デヴィ。2才頃にマイソール(現カルナータカ)州に移って古典舞踊を習い始め、5才でバチカン市国にてピウス12世教皇を始めとする観衆の前でインド舞踊を踊ったそうな(!!)。その後キリスト教系の学校に進学しながら様々な舞踊を修得し、その舞踏力を見出されて映画界に誘われ、1949年のタミル語映画「Vazhkai(人生)」で映画&主演デビュー。翌50年に一部キャスト変更で作られたテルグ語吹替版「Jeevitham(人生)」では、父の協力でヴィジャヤンティマーラー自身がテルグ語吹替を担当。さらに、これらのヒンディー語リメイク作「Bahar(春/別意:幸福)」が51年に公開されてこちらでも主演し、3作全て大ヒットさせてしまう。その後は、主にヒンディー語映画、タミル語映画を中心に年に3〜7本も映画出演する大スターとしてインド映画界を支える重鎮に成長。ヒンディー映画界では「ボリウッド初の大女優」と呼ばれ、多くの映画賞と共に、パドマ・シュリー賞(*10)を始め後年には数々の功労賞・栄誉賞などが贈られている。 1968年に結婚した後、70年公開作「Ganwaar」をもって女優業を引退。82年のタミル語映画「Kathoduthan Naan Pesuven」でプロデューサー補として参加した以外は映画界から離れ、古典舞踏界や政界で活躍。1984年、その人気に推されてタミル・ナードゥ州の下院議員に当選し、93年には上院議員に任命されるも、99年のインド国民会議派党の政治運動を問題視して一旦辞任。その後インド人民党に参加しているそうな。 対するアジャータシャトルを演じたのは、50〜90年代に活躍した大スター スニール・ダット(生誕名バルラージ・ダット)。 1929年の英領インド パンジャーブ州西部のジェルム県(*11)出身。5才の時に父を亡くし、18才の時に起こった印パ分離闘争の際に父の友人のイスラム教徒に助けられ、家族そろってハリヤーナー州ヤムナー・ナーガルに移住。ムンバイの学校に進学して観光バス会社に就職後、ラジオアナウンスで人気を得て映画界に参入。1955年のヒンディー語映画「Railway Platform(鉄道駅)」で映画&主演デビュー。57年の主演作「Mother India(インドの母)」の大ヒットによってスターダムへのし上がり、同作で主演同士だったナルギスとの交際を経て後に結婚する(*12)。63年の「Yeh Rastey Hain Pyar Ke」でプロデューサーデビュー。64年の主演作「Yaadein(記憶)」で監督デビューも果たし、数々の映画賞と共に68年には国からパドマ・シュリー賞を与えられ、80年代以降には数々の功労賞が贈られている。 72年の監督作「Reshma Aur Shera(レシュマーとシェーラ)」で息子サンジャイ・ダットを子役出演させ、さらに81年の監督作「Rocky(ロッキー)」でサンジャイ・ダットの主演デビューを飾りつつ共演。この映画公開直前に妻ナルギスを膵臓癌で亡くし、癌治療のためのナルギス・ダット基金を設立。翌82年には、マハラーシュトラ州政府よりムンバイ・シェリフ(*13)に任命され、以降社会活動や政治活動にも参加していくことに。 03年の「Munna Bhai M.B.B.S.(ムンナー兄貴と医療免許)」で、久しぶりに映画復帰して息子サンジャイと初の本格的共演を果たすも、05年5月25日に心臓発作のために自宅で死去。享年75才。 監督のレーク・タンドンは、1929年英領インド ラホール(*14)生まれの映画監督。 父親F・C・タンドンが、カプール一族創始者プリスヴィラージ・カプールの親友であり、兄ヨグラージがそのプリスヴィラージの助手兼助監督をしていたこともあって映画界に誘われて、50年代から助監督として働き始める。62年の「Professor」で監督デビューして、本作が2作目の監督作。その後も映画監督として働き続けるも、94年にTVドラマ「Farman」を監督したのを皮切りにTV界と映画界両方を渡り歩いている。 また、2004年の「Swades(祖国)」で70代ながら役者デビュー。「Paheli(なぞなぞ)」「黄色に塗りつぶせ(Rang De Basanti)」「Halla Bol(声を上げろ)」「Chaarfutiya Chhokare」「チェンナイ・エクスプレス(Chennai Express)」に出演していると言うから驚き。 歴史的には、紀元前6〜5世紀のガンガー流域部と言うのは、アーリア系支配体制がようやくゆるやかに浸透し始めた頃(*15)で、多民族間での活発な交易、豊富な資源、商取引の活性化による富裕層の拡大と、旧体制の瓦解と自由闊達な社会状況によって、実力主義や経済力による社会改革が進められた時代だったと言う(*16)。 マガダ国王アジャータシャトルは、早い時期から父王ビンビサーラと共に初期仏教教団と深く関わり、その征服行も仏陀の意見に従って中断していたりする。仏典では、いくつか説が分かれる彼の母親の出自に関して、本作では台詞上でヴァイシャーリー出身であることを匂わせてるから、ジャイナ教の伝説を採用してる…っぽい?(*17) アムラパーリーとの関係は、本作のような記述は仏典には無いみたいだけど、仏教伝説にでてくる同時代人を扱った悲恋映画として見るのがちょうどいい…感じ? 舞台美術とか役者の演技の付け方、ダンスシーンの振付け方とか見ても、当時の年代的技術力を差し引いても、舞台演劇的な匂いが濃厚な一本。 挿入歌 Neel Gagan Ki Chhaon Mein (青空の影の中 [昼と夜は互いを抱きしめる])
「Amrapali」を一言で斬る! ・いつ仏陀が出てくるかなあ…と思ってたら、シルエットかよ!(役者兼助監督のナーレンドラ・ナスが演じてるらしいけど…)
2015.4.24. |
*1 漢訳名 毘舎離または吠舎離。B.C.6〜5世紀頃にあった自治共和制の商業都市。現 北東インドのビハール州ガンダク河畔のバサル。 *2 都の花嫁の意。王室付き高級娼婦のこと。 *3 またはアンバパーリカーもしくはアンバパーリー。その名は"マンゴー園を育てた娘"の意。漢訳名 菴摩羅女、菴没羅、捺女、奈女、非浄護など。 *4 五精舎になにを数えるかは、諸説ありだそうな。さらに言えば、このマンゴー園寄進の話は後世の造作説が有力とのこと。 *5 もっとも、最後にいきなり登場する仏教団や仏陀の扱いは、明らかにアムラパーリー伝説を知ってることを前提にしているけども。 *6 簡単に剣に切り裂かれる防具っていったい…。 *7 この映画の影響なのか元が映画に影響を与えたのか、インドの土産物屋では、本作のヴィジャヤンティマーラーに似た衣裳を着た人形を「アムラパーリー」と名付けて売ってるそうな(お教え頂いた所、あの衣裳はアレンジが入ってるものの、古典舞踊におけるアムラパーリー衣裳として確立しているスタイルとのこと。お教え頂きましてありがとうございます!)。 *8 タミル発祥の古典寺院舞踊。 *9 インド古典音楽。 *10 一般国民に与えられる4番目に権威ある賞。 *11 現パキスタンのジェルム県。 *12 セットの火事から、身を挺してナルギスを守ったことがきっかけとか…「恋する輪廻」の元ネタ? *13 1年限定の特別外交官市民代表。 *14 現パキスタンのパンジャーブ州都。 *15 逆に言えば、そこまで厳密な階級社会や血統主義が浸透しきっていなかった頃。 *16 その中で出てきたのが、後にインドをほぼ統一するマガダ国であり、古代からの宗教規範に疑問を投げかけ再構築させた仏教やジャイナ教と言う新宗教だったりする。 *17 歴史学的にも、そっちの説の方が有力らしいけど。 |