Anarkali 1953年 155分(148分とも)
主演 ビーナ・ローイ & プラディープ・クマール
監督 ナンドラール・ジャスワントラール
"歌うのは私じゃない。私の恋する心"
"踊るのは私じゃない。誰かのために踊ろうとする私の心なの"
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ーここに、アナールカリーは眠っている。
サリームへの夢をその目に宿す彼女は、静かに眠っている。
ここは愛に殉教した者の墓。ああ東風よ、その者たちを讃えて優しく吹け…。
時に、ムガル帝国第3代皇帝であるアクバル大帝の御代。
その日、旅の踊り子ナディラは兵士の男との密会をアクバル大帝に邪魔されて、その怒りを皇帝本人にぶつけていたものの、彼女の歌で恋人が戻ってきたのを見て機嫌を取り戻していた。
皇帝もそんな彼女の歌の力を讃え「恋する者に勝る者などいない」と彼女の望む褒美…"アナールカリー(*1)"の名を与え、後々までその業績を語り継ごうと約束する。
直接皇帝は確認しなかったのだが、その踊り子の恋人というのは実は皇太子ヌールッディーン・ムハンマド・サリームその人。ナディラとサリームは、お互いに名前も身分も知らぬままに逢瀬を重ねていたのだった。
しかしサリームは、程なく父帝と共にカブール遠征に出ることとなり、恋人への別れの言葉も言えぬままに出発してしまう。その恋人の姿を垣間見たナディラことアナールカリーは、軍隊を追って隊商と共に砂漠越えをしようとするものの、すぐに強盗団に捕まり奴隷市へと連れていかれてしまう。彼女を買った男は、安全な場所へと彼女を導いた後「僕だ。君の兵士だ」とその正体…サリームの顔…を現してアナールカリーを安心させるものの、これを目撃した皇帝は激怒。恋人と離れようとしないで刃を向けるサリームを捉えて最前線に送ってしまい、サリームは戦闘の中で昏倒したまま眠り続けることに…!!
挿入歌 Mujhse Mat Poochh (愛が何をくれるのか [聞かないで。それは私の中にある炎なのだから])
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タイトルは、本作の主人公でもある伝説の舞姫の名前で、その名義は「ザクロの花」。
ムガル帝国第3代皇帝となるアクバル大帝の時代に、伝説上で皇太子サリーム(後の第4代皇帝ジャハーンギール)との禁断の愛に陥ったと伝えられる踊り子アナールカリーの悲劇を映画化したヒンディー語(*2)+ウルドゥー語(*3)映画。
1928年の同名サイレント映画のリメイク作で、1953年度最高売上を達成したヒンディー語映画でもある。
リメイク元のサイレント映画をはじめいくつか同じ名前の映画があるものの、同じ伝説を題材にしていることはあってもそれぞれ別映画、のはず。数ある同じ伝説ネタの映画の中で、特に歴史大作として評判が高いのが、かの有名な「Mughal-e-Azam(偉大なるムガル帝国 / 1960年公開作)」である。
タージマハルの由来となるシャー・ジャハーン(第5代ムガル皇帝)とムムターズマハルの悲恋と並んで人気のようである、インド史上の理想の恋人たちサリームとアナールカリーの物語は、映画以前に舞台演劇としても人気で、映画としては本作は2本目の映画化作品。
のちの歴史的大作「Mughal-e-Azam」と比べると、両者とも舞台的様式化された芝居が目立つのは共通とはいえ、恋に恋する少女のようなアナールカリーや、親に恋人のことが露見するのを恐れる気弱なサリーム、頑固親父そのもののアクバル大帝など、軽快な台詞芝居はより劇的に、より庶民的な色合いが濃厚で、良く言えば明快でわかりやすく、悪く言えば宮廷人の物語ながらその立ち居振る舞いに荘厳さは薄く一般人家庭ドラマ的な色合いが強い。
アナールカリーも、宮廷付き踊り子ではなく気軽な旅芸人という設定(*4)になってるため、わりと身軽にいろんなところへ飛び回る行動力を備え、その分アクティブに自分の恋に生きることに素直な自律的生命力を見せつける。それは、父親から逃げ回る気弱な優男サリームにも影響を与えて、彼の胸に秘めた恋心を両親にあてつけ、父帝の反対に対して刃を抜いて抵抗する勇気を見せる気概をも発揮させる、恋に落ちた人間の成長と強さを謳い上げる人間賛歌をこそ映画は表現していくような作り。
それはもちろん、その後のアナールカリーの悲劇を知ってる観客に対しての布石であり、太く短く愛に殉教する人の美しさを一片の恥ずかしさもなく見せつけていくものであって、そこに描かれる滅びの美学の力強さもまた、50年代という時代性も合わせてその時にしか描け得ないものを存分に表現しきったものでありましょうか。劇映画としては、個人的には「Mughal-e-Azam」よりすんなりと入ってくるとっつきやすさがある分、わりと好感度が高いかなあ…(*5)。
監督を務めるナンドラール・ジャスワントラールは、1907年英領インドのボンベイ管区(? *6)バルドリ(現グジャラート州スーラト県バルドリ)生まれ。
24年に映画会社に就職して助監督として映画界に入り、29年のサイレント映画「Ulfat-e-Mohammad」で副監督を務めていたらしい。同年の「Jawani Diwani(若者の炎)」と「Pardesi Saiyan」の2本で監督デビュー。以降、サイレント映画で多数のヒット作を世に送り出し、トーキー時代に移る中で「Pardesi Preetam / 公開は1933年」からヒンディー語映画界で活躍。51年の監督作「Sanam」ではプロデューサーデビューも果たしている(*7)。
1961年に物故。没後の67年(63年とも)に、遺作となる「Akeli Mat Jaiyo(一人で行かないで)」が公開されている(*8)。
タイトルロールとなるアナールカリーを演じたのは、1931年英領インドのパンジャーブ州ラホール(*9)生まれのビーナ・ローイ(生誕名クリシュナー・サリーン)。
生まれたその年に、家族全員がラホールの暴動によって家を追われ、連合州(現ウッタルプラデーシュ州)に移住。ラクノウの大学で芸術を専攻して演劇で活躍する中で、広告で見つけたタレントコンテストに参加して優勝し、優勝賞金とともに1951年のヒンディー語映画「Kali Ghata(黒雲)」への主役級出演権を獲得する(*10)。
20才の誕生日の日に公開された「Kali Ghata」で映画&主演デビューとなり、本作公開と同じ53年(52年とも)の主演作「Aurat(女 *11)」で共演した男優プレーム・ナートと恋に落ち結婚(*12)。夫婦はすぐにP.N.フィルムズと言う制作会社を設立するものの、元請け映画の売り上げが伸びずすぐに立ち消えてしまったそうな。その後も50〜60年代にかけて活躍。60年の「Ghunghat」でフィルムフェア主演女優賞を獲得しているが、68年の「Apna Ghar Apni Kahani」を最後に女優引退。後に、一定年齢を越えた女優は、良い役がやってこないと映画界を公然と非難していた。
2009年、マハラーシュトラ州都ムンバイにて心停止により物故される。享年78歳。
息子プレーム・クリシェンが後に男優デビュー(*13)して、孫娘アーカンクシャー・マルホートラも女優デビュー。孫のシッダールト・マルホートラは映画・TVドラマ監督になっている。
アナールカリーの恋人役であるサリームを演じたのは、1925年英領インドのベンガル州カルカッタ(*14)に生まれたプラディープ・クマール(生誕名シタル・ボッタビヤル)。
17才から役者を志して演技を特訓。47年のベンガル語(*15)映画「Burmar Pathey」で映画デビュー後、ベンガル語映画界で活躍。
ムンバイに移住して52年の「Anand Math」からヒンディー語映画を拠点に活動。本作でヒンディー語映画主演デビューとなり、50年代を通して数々の大ヒット作に出演し続け、56年の主演作「Ek Shola」でプロデューサーデビュー。60年代から人気に翳りが見えつつも、多くの助演出演を続ける中で66年の主演作「Do Dilon Ki Dastaan」で監督&脚本デビュー(*16)。82年には英印合作映画「ガンジー(Gandhi)」に出演して英語映画デビュー。88年のヒンディー語映画「Na Bhoole Hain Na Bhoolenge」で単独監督デビューもしていて、99年にはカラカール生涯功労賞を贈呈されている。
01年、コルカタにて心停止で物故される。享年76歳。
娘に女優ビーナ・バナルジーがいて、彼女と映画監督アジョイ・ビシュワースの間に助監督をしているシッダールト・バナルジーが生まれている。
実際のアナールカリーの生涯は、1611年の東インド会社の英国人商人ウィリアム・フィンチの日記などに伝記として登場するものの、1600年前後にアクバル大帝の不興を買って生き埋めにされたと言う記述以外は曖昧な部分が多い。
宮廷の女官だったと言う説もあれば、アクバル大帝の最愛の妾妃説、宮廷人を相手にする娼婦説もあり、本名はナディラ・ベーガムともシャルフ=ン=ニーシャともされる。その墓地は、現在のラホール(*17)に現存していて、初期ムガル帝国時代の建築様式を伝える貴重な史跡として一般の立ち入りが禁止されているそうな(*18)。
伝説では、サリームとの仲を疑ったアクバル大帝によって捕縛されたのち生きたまま壁に埋められてしまい、この事からサリームとアクバルとの対立は激化したとされるものの、歴史学的根拠に乏しい伝聞資料しか残っていないため学術的には本当のことかどうか疑わしいとされるの通説のよう。
劇中では、市井の踊り子との恋愛を優先しようとするサリームとそれに反対するアクバルとの間で戦闘も起こっているお話ながら、基本的には家父長制の父親絶対に支配された関係が最後まで貫かれ、ジョダー皇后(*19)が怒るアクバルの裁きを止められないで苦しんだり、サリームが反抗していても最後には父親に懐いて許しを乞うようになったりと、家族間のゴタゴタが中心に来ている。その中で、認められない結婚相手としてアナールカリーが、時に自分を殺してサリームのために動き、時には自身の望みを達成するために歌や語りで皇帝に喧嘩をふっかけたり、サリームのために自分が進んで犠牲になろうとしたりと、たった一人で奮闘する健気な姿は、一般家庭における嫁いじめに耐えるよそ者の身分に苦しむ新婦のよう。
とはいえ、当時としてはガッツリと絢爛豪華に仕上げているであろう衣裳とセット建築は白黒画面の中でも王宮人の豊かさを見せつけるような重厚さ。アナールカリーを陥れようとするライバル女官の陰謀と共に、この美術の重厚感は後の「Mughal-e-Azam」にもそれなりに影響を与えているのかもなあ、と思えるインパクトではある。その重厚感の中で重要シーンに繰り返されるナンドラール・ジャスワントラール監督独自の演出法である、写真画像を思わせる静止アップカットの挿入が、映画の質をより硬質なものにしているようで、その荘厳さと身近さを兼ね備えた映像の重なり具合は、今でも美しさを失わない傑作たり得る一本になっている。
挿入歌 Aaja Ab To Aaja (来てください、今すぐに)
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「Anarkali」を一言で斬る!
・数あるラブレターの渡し方にあって、使用人の飼育する鹿を宮殿内に放して届けさせるなんて方法、他にあったろうか!
2024.8.8.
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*1 ザクロの花の意。2人が出会った場所にあった樹にちなむ。
*2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*3 ジャンムー・カシミール連邦直轄領、ラダック連邦直轄領、アーンドラ・プラデーシュ州、テランガーナー州、ビハール州の公用語。パキスタンの共通語でもあり、主にイスラーム教徒の間で使用される言語。
*4 母親が出てくるけど、母親も旅芸人ということだったのかどうなのか…?
*5 分かりやすすぎる、って面もあるけど。
*6 当時多数あった藩王国の1つに組み込まれていたかも?
*7 プロデューサーはこれ1本のみ。
*8 長年、共に映画制作に携わってきた監督兼脚本家チャンドラール・シャーが、監督の没後に仕事を引き継いで完成させたと言う。
*9 現パキスタンのパンジャーブ州都。
*10 女優になる夢は初めから持っていたと言うものの、反対する両親を説得した上での映画出演となったとか。
*11 聖書伝説のサムソンとデリラの翻案映画。
*12 プレーム・ナートが、映画一族カプール家出身のラージ・カプールの義兄にあたるため、ビーナ自身もカプール家の一員に迎えられている。
*13 後、すぐプロデューサーに転身。
*14 現 西ベンガル州都コルカタ。
*15 北インドの西ベンガル州とトリプラ州、アッサム州、連邦直轄領アンダマン・ニコバル諸島の公用語。バングラデシュの国語でもある。
*16 監督は、プラモード・チャクラヴォルティと共同。
*17 本作主演のビーナ・ローイの生まれた街!
*18 歴史上、建物内は何度か改装されているため、外観以外は当時からだいぶ変更されているよう。
*19 「Mughal-e-Azam」と同様に、アクバルの正妃としてジョダーが採用されている事、皇帝一家が一夫一婦制である事から来る交際の可否をめぐる親との対立は、民間伝承をもとにしていて史実とは異なる。