インド映画夜話

放浪者 (Awaara) 1951年 164分(193分とも)
主演 プリトヴィラージ(・カプール) & ナルギス & ラージ・カプール
監督/製作 ラージ・カプール
"僕は宿無し放浪者、誰も愛してくれやしない"
"それでも僕は楽しい歌を歌おう。それでも僕は"




 その日、殺人未遂で起訴された囚人308号ことラージの裁判が始まったのだが、裁判長が開廷を命じても彼の弁護人は現れなかった。
 ラージが、このままでいいからと裁判を始めさせようとしたその時、彼の担当弁護士を名乗る女性リタが現れる…「覚えていて? 貴方が起訴された時は、必ず私が貴方を弁護すると言う約束を…」

 リタは、原告のラグナート判事への反対尋問に際して、先輩であり育ての父親でもある彼に非礼を詫びながら「先輩、どうか祝福をお与えください…これが私の初めての仕事となります」と前置きして語り出す…「被告を『生まれながらの犯罪者』と呼ぶ理由をお聞かせください。貴方はお子様はいらっしゃいますか? いないと言い切れますか? 以前に奥様を家から追い出した時の状況を、詳しくお聞かせください。これが、この事件が起きた原因を探る重大な出来事なのです!!」

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 24年前。
 ラクノウにて寡婦リーラと独断で結婚した若き日のラグナートは、そのために一族から厄介者扱いされて親戚の家に逃げていた。
 そこでリーラが強盗団にさらわれてしまう事件が発生。強盗団の頭目ジャッガは、気絶しているリーラが妊娠しているのを知って、かつて「強盗の息子」と言う理由だけでレイプ犯の容疑をかけて収監を裁定したラグナートへの恨みを晴らすため、女をラグナートの元へそのまま返す事を決める…「この女の夫はかつて、善人から生まれた子供だけが善人になると言った。強盗の子は必ず強盗になるのだと。…なら、弁護士の子供がどうなるのか、見てやろうじゃないか…」


挿入歌 Awaara Hoon (僕は放浪者)


 40〜80年代に活躍した名優ラージ・カプールの、監督作第3作となるヒンディー語(*1)映画の傑作。劇中タイトル表記では「Awāra」。

 カンヌ国際映画祭で作品賞ノミネートされ、インド本国の他ソ連圏〜中国〜中東〜アフリカでも大ヒットを飛ばし(*2)、1955年のトルコの日刊紙ミリエの読者投票にて年間最高映画に選出。1964年には、トルコ版リメイク作「Avare」が公開された他、さらに7作ものリメイク作がトルコで作られたそう(*3)。
 2003年のTIME誌にて、「インド映画の宝10選」の1作に選定され、主演ラージ・カプールの演技も「史上最高のパフォーマンス10選」に選ばれている。05年には、インディアタイムズ・ムービーズ誌の「必見ボリウッド映画ベスト25」の1本に選ばれ、12年にもTIME誌のオールタイム映画100選の中で、優秀映画20作の1つに選定されている。
 日本では、1988年の大インド映画祭にて「放浪者 (Awara / The Vagabond)」のタイトルで上映。2007年の東京国立近代美術館フィルムセンター主催の「インド映画の輝き」でも上映された。

 叙事詩ラーマーヤナの最終巻の物語にも似た、優生思想を信じる父親に貞操を疑われて放逐された母親から生まれた子供の人生を通して、「人の出来不出来は、血筋か環境か」の対立を描いていく1本。
 当然、不遇な主人公側に立った「生まれで全てを決めてしまう優生思想への反逆」が、苦痛を伴う賞賛を階級闘争の中から勝ち得ていく物語になるわけで、そこが当時の社会主義圏で大いに評判を呼んだ要素となったと分析されている映画でもある。

 頑なに優生思想を信じながらも、家に反対して恋愛結婚を貫いたラグナート(*4)が、自身の信じるエリート街道を驀進する中、その貞操への懐疑故に一方的に妻リーラを捨て去り、それ故に望まぬ苦渋の人生を歩むことになった母子との予期せぬ再会にも気づかずに貧困のために犯罪に加担せざるを得ない人々を一方的に差別し、裁定し、貶めることになんの躊躇もない頑迷な世間の姿そのものを見せつける。
 一方で、そんなラグナートに犯罪者呼ばわりされた恨みを晴らそうとする盗賊団の頭ジャッガが、自身は真っ当な仕事にもつきながら、事あるごとにラグナートの捨てられた息子ラージの人生に介入し、その人生の浮上を阻止し続け、エリートの血筋を持って生まれた者が零落していく様を見続けようとする悪趣味さを見せる一方、貧困層からの富裕層への弱々しい唯一の反逆の姿がそれしか残されていない虚しさを見せつけもする。
 一部少数の富裕層が権力と財産を固持する一方で、その他大勢の人々が犯罪に手を染めねば生き残れないほどの社会の貧困・混乱がそのまま放置されかつ自己責任の名において処断されてしまう現実の不均等を、叙事詩を下敷きにして現代劇・現実の問題として分かりやすくエンタメに描き出してくる戯曲のスキのなさが素晴らしい。

 1948年の監督デビュー作「Aag(炎)」から、常に自分と女優ナルギスを主演にして映画を製作していたラージ・カプールは、本作でさらに父親プリトヴィラージ・カプール(ラグナート役)、弟シャシ・カプール(ラージの少年期役)、さらには祖父バシェシュワーナート・カプール(裁判長役)までも出演させるカプール家映画の様相を見せつけてくる。しかし、企画時には、実の息子の監督作だと聞いたプリトヴィラージ・カプールが一時出演拒否しようと抗議していたとかいう裏話も伝わっていて、その辺、悪役としてのラグナートの役作りに一役買った騒動でもあったのか、カプール家映画という側面への宣伝材料として話が大きくなったものなのか…。後のインド映画界でも時々見る、親が子供を厳しく映画人として育てようとするが故の共演拒否の姿をこの時代にも見る様ではある(*5)。
 主人公ラージの母親リーラを演じた女優リーラ・チトニスも、悪魔の囁き役ジャッガを演じた男優K・N・シンも当時の名優。貧困のために苦しめられる庶民の悲哀・忿怒・諦観・希望の見えない中ですがりつくそれぞれの仮初めの希望(*6)の演技が冴え渡り、それに翻弄されるラージ・カプール演じる主人公ラージの、コミカルながら哀しさを含んだ乾いた笑いの諧謔に見える当時のインド社会への視線は、現代にあってもなお問題定義として生き続けている価値観に見えてしまう。

 後の55年公開の同じラージ・カプール監督&主演作「詐欺師(Shree 420)」と比べると、同じ様な階級闘争構造の物語ながら、こちらの方は家族の因縁が絡んでくる分より絶望度が高い感じ。出自や見た目で人間の価値観を決められてしまう家族・世間の頑固さ・冷酷さがより強調され、それをよしとする事で自身の地位を確立して安泰を図る富裕層・貧困層双方の不遇の連鎖による救いのなさが、結局最後まで完全には解消されないほろ苦さを見せつける。
 その中でも、ラージの幼馴染リタ(*7)がラージに差し伸べる教育による階級の並列化、貧困の解消、職業の貴賎の無効化が、それぞれに社会の不均等の解決の鍵として描かれていく所に、物語的なかすかな希望は見えてくる。成長したラージがずっとリタの写真を捨てられずに、彼女の視線を意識するが故にコソ泥になった自分に引け目を感じて人生の落伍者である事を噛み締めずにはいられないほどの眩しさを見せられて来たからこそ、彼は殺人などの重犯罪に手を染める事を拒否したとも見える。完全なハッピーエンドを信じることができなくとも、主人公と同世代の若い世代による意識改革が世間を変えるかもしれないと描かれる希望は、半世紀以上が経った現代にあってどれほどの希望の灯になっているのでしょうか…(*8)



挿入歌 Ghar Aaya Mera Pardesi (旅人が帰って来た [私の目の渇きも、これで癒されます])





「放浪者」を一言で斬る!
・同じ目、同じ眉とヒロインに言わしめる実際の親子の眼。怒りと驚愕のプリトヴィラージの眼。憂いと諦めのラージの眼。その対比、演技だとしたら余計にスゴゴゴゴゴ!

2024.7.4.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*2 ソ連、中国それぞれでチケット1億枚以上が売れたとの記録あり。
*3 さらに1967年には、この「Avare」のイランリメイク作「The Wheel of the Universe」も公開。
*4 ラグ族の王=ラーマ王の意となる名前。ここにもラーマーヤナからの引用、叙事詩の現実への反映の視線が垣間見える。
*5 映画人になるのは、血筋故かはたまた環境故か世間に響く名声故か…? 本編にも通じる問いかけですなあ。
*6 リーラは息子の将来、ジャッガは同じラージの落伍と言う対比構造!
*7 光輝、強さ、人生の道筋等の意。
*8 事はインドだけの問題ではなく、かえって日本にドンピシャに当てはまる問題に見えてくるのが…なあ…。