バジュランギおじさんと、小さな迷子 (Bajrangi Bhaijaan) 2015年 153分 パキスタンの片田舎スルタンプルに住む6才の少女シャヒーダー・ラウーフは、ある事故が元で声を出すことができなくなってしまった。 一族会議の末、老人の勧めでインドはデリーにある聖者ニザームッディーン廟に参拝すれば治るだろうと言われ、母親ラジアーは一縷の望みを託して取得困難なインドへのビザを手に入れ、印パ国境を結ぶサンジャウタ特急に娘と共に乗り込んでいく。しかしその帰路、線路支障で停車していた特急から降りてしまったシャヒーダーは、そのままパキスタンへと発車する特急に戻れず、声を出す事も出来ないために、ただ一人異国インドに取り残されてしまう…!! 翌朝、特急と同じ線路を走る貨物車に乗り込んでいたシャヒーダーは、そのままハヌマン生誕祭に湧く見知らぬインドの地方都市(ハリヤーナー州クルクシェートラ)に来ていた。 そこで皆の注目を集める敬虔なヒンドゥー教徒のバジュランギー兄貴(本名パワン・クマール・チャトルヴェディ *1)を見つけたシャヒーダーは彼につきまとい、バカ正直なバジュランギーも彼女を放っとくわけにも行かず世話を買って出てしまう。しゃべれないシャヒーダーからなにも情報を引き出せないまま彼女を"ムンニー(お嬢さん)"と名付けるバジュランギーは、どこにいるとも知れない彼女の親探しを始めるのだが…。 挿入歌 Selfie Le Le Re (さあ、撮りに来い!!) *主人公バジュランギー初登場シーンを飾るアッパー系お祭りソング! 叙事詩ラーマーヤナに登場する猿神ハヌマンの生誕を祝う大騒ぎのお祭りの中、孤独に立つシャヒーダーと、大興奮のるつぼと化すバジュランギー兄貴率いるヒンドゥー教徒たちの対比がイイネ。 叙事詩の中で、ラーマへの忠誠の証しとして自ら胸を引き裂いて心臓にラーマとシータの像を出現させたハヌマンの逸話にあやかって、歌は「さあ(我が心臓を)取りに来い」と歌うと同時に「(お祭りの中で)自撮りしに皆来い!」とも歌い合うんだゼワショーイ! 熱心でバカ正直なヒンドゥー教徒の主人公が、親とはぐれたパキスタン人少女と共に歩む珍道中を描く、サルマン主演の記録的大ヒット ヒンディー語(*2)+ウルドゥー語(*3)+パンジャーブ語(*4)映画。 監督&脚本は、日本公開作「タイガー」を手掛けたカビール・カーン。さらに原案&脚本担当に、テルグ語映画界で活躍する脚本家K・V・ヴィジャイェンドラ・プラサード(*5)が参加しており、本作で数々の映画賞を受賞したこの年には、本作と同時にやはり世界的ヒット作となった「Baahubali: The Beginning(バーフバリ 起譚)」の脚本も担当している人物でもある!! 日本では、2016年にインド映画同好会で「バジランギー兄貴」のタイトルで上映。2019年に「バジュランギおじさんと、小さな迷子」の邦題で一般公開! さらに、2024年の大阪の第七藝術劇場と扇町キネマ開催のゴールデンウィークインド映画祭でも上映。同年にリバイバル公開もされている。 出だしは、パキスタン人シャヒーダーの身に降り掛かった事件と、小さな少女であるシャヒーダーがただ一人インドに取り残される顛末を描いていき、映画前半はデリーを主な舞台としてバジュランギー兄貴とシャヒーダーの交流、2人だけでパキスタンに向かうしかない状況へと流れていき、後半では2人の珍道中を中心に、そこから印パ双方の国民が2人の影響を受けて一体になっていく"印パ再統合の夢"を描いていく。 「アメリカに行くよりも、隣の国に行く事の方が難しい」と劇中で何人かが口にする、分離独立闘争以後、現在も続く印パ対立による印パ国境の分断具合、インド人とパキスタン人の相互不信、宗教や民族、生活習慣の違いから来る線引きと、(最終的には)それを越える事を可能にする人の力を、寓意的に、時に願望的に、時にシビアに描いていく映画。 ある程度希望的観測で進む物語そのものが、印パ対立の終焉と再結合の夢と言う「不可能であろうと誰もが思う願望」が"あるいは、いつか皆が望めば…"と夢想してしまう人の力の可能性を嫌味なく表現してくれる。そういう意味では、後半に登場するレポーターのナワーブと言うキャラクターの立ち位置も含めて、報道界出身のカビール・カーン監督の、報道の力と言うものに対する姿勢がなんとなーく染み込んでいるような、でもないような映画…ですかね? この映画の魅力のほとんどを持っていって数々の映画賞に輝いた(*6)のが、シャヒーダー役の子役ハルシャーリー・マルホートラ。 2008年ムンバイ生まれで、本作が映画デビュー。本作以前に子役モデルとして数々の広告やTVショー、CMで活躍していたそうな(*7)。本作には、5000人ものオーディションを勝ち抜いての抜擢となったそう。 生死をさまよう恐怖故にしゃべれなくなってしまったと言う設定によって、物語が次々転がっていく軽快さもスンバラしいし、映画デビューの子役の演技力ハードルもある程度下がってくれるから、ウマい展開を考えたよね…とうがった見方をしようとしたこっちの薄汚れた視線を軽く飛び越えてくれるハルシャーリーの魅力たっぷりの演技・表情の数々は圧巻ですゼ。劇中に描かれる"子供らしさ"は多少作りすぎなきらいもあるけれど、それが全然嫌みにならないのは映画内の色んな演出バランスの軽妙さと、ハルシャーリー自身の魅力そのものですな。彼女と一緒にいると、"敬虔なヒンドゥー教徒故に嘘を嫌い、バカ正直で人を疑わない青年"を演じるサルマン兄貴の良い人演技も、嫌味に見えないで「いいコンビですねえ」とか思えてくる映画マジック。 映画冒頭で、クリケットの印パ対決試合を見てパキスタンへの愛国心に湧くシャヒーダーの家族たちの中にあって、祖父(?)の代にはデリーまで自由に行けたと言う思い出が語られる事、聖者廟でのお祈りやヒンドゥー祭の喧噪が結果的にバジュランギーとシャヒーダーを引き合わせた事(*8)、パキスタンの国境警備隊のバジュランギーへの態度の軟化具合、手助けしてくれたイスラム法学者との別れ際に、ヒンドゥーのバジュランギーが自然とイスラム式の挨拶をしてしまいそうになる描写などなど…を通して、印パ統合の夢、ヒンドゥーとイスラムとの相互和解の希望が仕組まれている所なんか、それ自体がラストへの感情的起伏の伏線ともなっていて熱いシークエンス。 と同時に、ヒンドゥーとイスラムが隣り合って暮らすデリーの下町の様子、ブラーミンの伝統を頑に守る事を誇りとしている前半のヒロイン ラズィーカの父ダヤナンドがバジュランギーに与える障壁、バジュランギーの気持ちを踏みにじる代理店員の姑息さ…と言った、一筋縄ではいかない人々の頑さ、ズルさ、信用の出来なさが描かれていく所も、希望的観測のストーリーラインとの良い対比・良い起伏点となってくれて興味深い。2つの宗教が、どちらも人と人を結びつけるツールとして物語内で機能している所、それによって人の運命もまた良き方向へと展開していく所も、インド映画としてポイント高い要素デスネ!! それにしても、最後あたりのシーンでは、シャヒーダーの顔に鉄条網が引っかかるんじゃないかと毎回ヒヤヒヤしてしまうワタス…。 プロモ映像 Aaj Ki Party (今日の宴は、私のために) *映画本編以後を描く、ネタバレ必至な特典ミュージカルの乱舞!
受賞歴
「バジュランギーおじさんと、小さな迷子」を一言で斬る! ・ムンニの故郷当てでインドの地名を次々上げていくバジュランギー周辺のインド兄貴たち、日本でこれをやったら、何回続くかな…(インド旅行経験者がいるかどうかで、だいぶ変わるだろうけど)
2016.10.29. |
*1 "バジュランギー"は、彼が信望する猿神ハヌマンの、北インドにおける異名バジラング・バリから。"バジュラに負けぬ手足を持つ力強き者"の意。 *2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。 *3 ジャンムー・カシミール州の公用語でパキスタンの国語。主にイスラム教徒の間で使われる言語。 *4 パンジャーブ州の公用語で、デリーの第2公用語。パキスタンでもパンジャーブ州を中心に話者人口は多い。 *5 かのテルグ語映画界の巨匠S・S・ラージャマウリ監督の父親! *6 歴代最年少受賞者ともなった。 *7 パキスタンのCMにも出演経験ありとか。 *8 まるで、叙事詩の中でハヌマンが、ラーマや囚われのシーターにめぐり逢ったかのように? |