インド映画夜話

賭け (Baazi) 1951年 137分(143分と言うデータも)
主演 デーヴ・アーナンド(製作も兼任) & ギーター・バーリー & カルパナー・カールティク
監督/原案/出演 グル・ダット
"賭けなさいよ、私が払うから。勝っても負けても、2等分よ"
"…オレは、いつでも勝つさ"




 貧乏ながら下町で評判の賭博師マダンはある日、ペドロと名乗る紳士に連れられて彼のボスがいると言う"スタークラブ"ヘ連れられていく。
 その地下で行なわれているカジノを取り仕切るボスから、自在に勝敗をコントロールできるディーラーになれと依頼され、その報酬として難病に苦しむ妹マンジューの治療費を払おうと提案されるが、きな臭さを嫌う彼はこれを断ってしまう。

 その翌日、マンジューの容態が急変して慌てる彼に、無料診療所の女医ラジニーが協力を申し出て妹を治療してもらう事に。これをきっかけに仲良くなっていく2人だったが、ラジニーの診断によれば、一旦は回復したマンジューだが療養所での長期治療を施さなければ先は危ういと言う…。

挿入歌 Tadbeer Se Bigdi Hui Taqdeer Bana Le (不運を幸運に変えてみて [貴方自身を信じて賽を投げるのよ])

*ギーター・バーリー(が演じるクラブの踊り子リーナ)の、ギター弾き語りだよ!(本人は実際には弾いてないかもだけど)
 もう、ギーターがカワイカッコいい! 一気にファンになってしまいそー!!

 1946年のハリウッド・フィルム・ノワール「ギルダ(Gilda)」の、インスパイアものヒンディー語(*1)+ウルドゥー語(*2)映画。
 それまで振付師や助監督をしていたグル・ダットの監督デビュー作であり、本作で主演を務めるデーヴ・アーナンド設立のナヴケータン・フィルムズ製作2本目の作品。
 日本では、2001年に国際交流基金アジアセンターによる「インド映画の奇跡・グル・ダットの全貌」、2011年の大阪アジアン映画祭プレイベント「アジアン 昨日、今日、明日」にて上映。

 アイディア元と言う「ギルダ」は未見ながら、あらすじを読む限り「賽の目を操るギャンブラー主人公」「主な舞台がカジノ」「カジノオーナーの情婦との色恋」あたりが抽出されている他はまったくの別物になっている映画のよう。
 どこと特に名指しされない裏ぶれた街中を舞台に、妹の治療のためにギャンブルで金を稼ぐしかなくなった青年と、なに不自由なく暮らす富裕層のヒロイン ラジニー、カジノの危険な踊り子リーナをめぐる三角関係を描きながら、ドンデン返しによる後半の劇的な畳みかけが光る傑作。ハリウッドのフィルム・ノワール作品群を意識した陰影効果やダーティな世界観が、後のグル・ダット映画群を予見するかのような作風ながら、家族愛や美女との三角関係、恋愛劇とその障壁など、きっちりインド娯楽映画としてのエンタメ要素を堅持している所もスゴい。
 日本での紹介文だと、「階層社会の矛盾を暴く映画」みたいなのをよく見るけど、ギャンブルものでフィルム・ノワール的映画を作ってれば、富裕層と貧困層の対立や歪みを描くのは当然の成り行きなんじゃないかなあ…(*3)。

 なにごとも説明好きなインド映画にあって、舞台の場所がハッキリしない、登場人物たちの過去がおぼろげにしか描かれないって所に、フィルム・ノワール的であるとともにニューシネマ的な諦観と言うか刹那な人生観も透けて見えるようではあるけども、ラスト近くに見えてくる踊り子(兼情婦?)リーナのやるせない人生像がわりとインパクト大で、出番としてはミュージカルダンサーメインな扱いにも関わらず、登場キャラの中で特に異彩を放つパワーを見せつけられるさまがトンデモね。一気にギーター・バーリーのファンになってしまいますわん。

 主役マダンを演じるのデーヴ・アーナンド(生誕名ダーランデーヴ・アーナンド)は、1923年英領インドのパンジャーブ州グルダースプル県シャカ・ガー(*4)の、弁護士の家生まれ。
 兄に弁護士マンモハン・アーナンド、映画監督兼プロデューサーのチェータン・アーナンド、同じく映画監督兼プロデューサーの弟ヴィジャイ・アーナンドがいて、妹のシェール・カンタ・カプールは英国で活躍する映画監督シェーカル・カプールの母親になる。
 ラホールの公立大学にて英文学士号を取得した後、ボンベイ(現ムンバイ)に移って軍事検察事務所の会計士をしていたものの、すぐに兄チェータンのいるIPTA(インド人民劇場協会)に参加して名優アショク・クマールを目指して俳優業に転身。オーディション生活の後、46年のヒンディー語映画「Hum Ek Hain」で映画&主演デビューする。奇しくもこの映画でグル・ダットと意気投合し、後の映画制作上での相互協力を約束していたと言う。
 その後、48年の「Ziddi(頑固な人)」が大ヒットし一躍トップスターに。翌49年には、兄チェータンとともに映画制作会社ナヴケータン・フィルムスを設立。50年にはチェータン監督作「Afsar」でプロデューサーデビューする。ナヴケータン・フィルムス製作2作目となる本作では、デーヴ・アーナンド直々の指名でグル・ダットを監督に立て、カルパナー・カールティクの女優デビューをも飾る事になった。その後も、両者との共作・共演は続き、54年にはカルパナーと結婚している。
 50〜60年代はデーヴ・アーナンドの絶頂期。「Prem Pujari」で監督&脚本デビューし、以降19作の監督作を世に贈り出す。59年の「Kala Pani(黒い水)」でフィルムフェア主演男優賞を獲得したのを皮切りに、多くの映画賞・功労賞も贈られており、01年にはパドマ・ブージャン(*5)を授与されている。
 2011年、ロンドンのホテル内で心停止により物故される。享年88歳。

 ヒロイン リーナ役を演じるギーター・バーリー(生誕名ハリキルタン・カウル)は、1930年英領インドのパンジャーブ州サルゴーダー(*6)生まれ。
 父親はシーク教哲学者で、シーク伝統音楽の歌手でもあった。アムリトサルで育った後、母方の祖父タカット・シン創始のシーク・カーニャ・マハービディヤレーイ(*7)で学び、両親から古典音楽・古典舞踊・乗馬・フェンシングを修得させられていたそう。
 親族はじめ周りのシーク教徒たちは女子の芸能活動に否定的だったらしいけども、12才頃から子役としてボンベイの映画界で活躍し始め、46年の「Badnami」で主演女優に昇格。48年の「Sohag Raat(結婚式の夜)」が大ヒットしてトップスターの仲間入りを果たす。53年のグル・ダット監督作にして自身の主演作「鷹(Baaz)」でプロデューサーデビュー。55年には男優シャンミー・カプールと結婚して、既婚女性は主婦業に専念する事が推奨されるカプール家の伝統に逆らい、結婚後も女優活動を続けていく。
 65年、2本目のプロデュース作となるパンジャーブ語映画「Rano」撮影中に天然痘を患い急死。享年35才。この突然の死は業界を驚かせ、「Rano」の監督兼原作者のラジンデル・シン・ベディはそのショックから企画自体を放棄したと言う。

 もう一人のヒロイン ラジニーを演じるのは、1931年英領インドのパンジャーブ州ラホール(*8)にて、パンジャーブ系キリスト教徒家庭に生まれたカルパナー・カールティク(本名モナ・シンハー)。テーシルダール(*9)の父親のもと、7人兄妹の最年少に生まれる。
 印パ分離独立後、家族でシムラーに移住して地元の聖ベデ大学在学中にミス・シムラー・コンテストに優勝。そこから遠縁の親戚になる映画監督チェータン・アーナンドの目に止まり、彼の自社プロ映画への出演オファーを受け、"カルパナー・カールティク"の芸名で本作で映画デビューする。クレジット的にはセカンドヒロイン扱いながら、劇中の活躍は完全にギーターと同格な存在感。
 その後も、チェータン監督のナヴケータン・フィルムスで女優業を続けていく事になり、3本目の出演作「Taxi Driver(タクシー・ドライバー)」撮影中に主演同士のデーヴ・アーナンドと結婚。57年の「Nau Do Gyarah(逃げろ!)」をもって女優業から退く事になるが、63年の「Tere Ghar Ke Samne(君の家の前で)」から夫を手伝う形でプロデューサー補として映画界に復帰している。05年には、特別出演で「Mr Prime Minister」に出演しているとか。

 本作で監督デビューして、インド映画史にその名を残す事になる鬼才グル・ダット(生誕名ヴァサント・クマール・シヴァシャンカル・パドゥコーン)は、1925年英領インドのマイソール藩王国バンガロール(*10)のコーンカニー系チトラプル・サラスワト家系(*11)生まれ。
 幼少期に西ベンガル州カルカッタ(現コルカタ)のバワニプールに移住し、グル・ダットと改名。そのままカルカッタの工場で電話オペレーターの仕事につくも、すぐに仕事に失望して両親のいるボンベイに移り、母と叔父が働くプネーのプラバート映画会社に3年間の契約社員として雇われて44年の「Chand」の端役出演で映画デビュー。その後は助監督や振付師として働きながら、同僚となったデーヴ・アーナンド他と友情を深めていく。
 契約終了とともに一時は無職のまま親元での生活を余儀なくされるものの、雑誌での連載小説やフリーの助監督、振付師として活躍し、親友デーヴ・アーナンドが設立したナヴケータン・フィルムスに招かれて本作で監督デビュー。すぐに新風のヒットメーカーとして注目されるようになっていく。
 映画制作を通して、多くの映画人を排出。コメディアンのジョニー・ウォーカー、大女優ワヒーダー・レーマン、撮影監督V・K・ムルティ、脚本家アブラール・アルヴィなどが彼の映画から頭角を現していく。53年に歌手ギーター・ゴーシュ・ローイ・チョウドリー(*12)と結婚するも、結婚生活はすぐに破局同然に変わり、59年の監督作「紙の花(Kaagaz Ke Phool)」の成績も奮わず大きな損失を出した事で会社との対立が起こり、監督業を干されてしまう。
 その後はプロデューサーや俳優業をこなしながら複数の映画企画を抱えていくが、煙草やアルコール依存、さらに睡眠障害を患い、64年にボンベイのマンションの一室で睡眠薬服用後に死んでいる所を発見される(*13)。享年39才。
 2005年のタイム誌上の"オールタイム映画ベスト100"では、監督作「渇き(Pyaasa)」が、それに先立つ2002年のサイト&サウンド誌上の"オールタイム映画ベスト160"ではさらに「紙の花(Kaagaz Ke Phool)」もランクインしていて、インド本国では11年に彼のドキュメンタリーも製作・放送されている。

 映画冒頭から、暗色カーペットに白い衣裳と明るい照明にあてられたカードで構成される白黒コントラストがハッキリした構図は、映画本編でも常に健在。ダーティな世界を生きるカジノメンバーの白いスーツが影の濃い空間に映え、薄汚れたトーンの衣裳に身を包む貧乏人は昼日中の明るい外や白い照明に照り輝く雑多な空間でやんやのかけ声をあげて盛り上がる。その感情表現や空間表現すら利用する照明効果や白黒色彩設定の画面作りは、今見ても(今見るからこそ)勉強になるってモンですわあ。

挿入歌 Suno Gajar Kya Gaaye (鳥の泣く声を聞きなさい [人生は短いわ])

*マダンを危険視するボスから彼の注意を引いておくよう命令されたリーナは、ダンスショーの裏でマダンの暗殺計画が動いているのを知り、その心は彼とボスとの間で荒れ狂う…。


「賭け」を一言で斬る!
・やさぐれ育ちの庶民やカジノメンバーが、しょちゅう煙草の煙を顔に吹き付けるしぐさは、もはや再現不可能な芝居よなあ…(当然、この当時は「煙草は身体に有害です」なんてクレジットはないしぃ)

2017.7.7.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*2 ジャンムー・カシミール州の公用語。主にイスラム教徒の間で使われる言語。
*3 ま、当時のヒンディー語映画界でこれを描いた、と言う一点がスゴいのでしょうが。
*4 現パキスタンのパンジャーブ州ナーローワール県内。
*5 国内で3番目に権威ある国家栄典。
*6 現パキスタンのパンジャーブ州サルゴーダー県の県都サルゴーダー。
*7 1904年パンジャーブ州フィールーズプルに設立された女子寄宿学校。
*8 現パキスタンのパンジャーブ州都ラホール。
*9 ムガル時代から呼称される税務官を意味する役職名。
*10 現カルナータカ州ベンガルール。
*11 現カルナータカ州カナラ海岸沿いを中心にした、コーンカニー語を母語とするブラーミン家系。別名"バーナップス"とも呼ばれる。
*12 後のギーター・ダット。
*13 彼の死は自殺とも事故とも報道さている。