セルロイド (Celluloid) 2013年 129分 20世紀始め、インド映画の父パルケー監督を訪ねに来た男 J・C・ダニエルは、世界初のマラヤーラム語映画を作ろうと情熱を燃やしていた。 パルケー監督の他、タミル語映画の父ムダリアル監督からも助言を得て、ついに映写機一式を購入したダニエルは、故郷トリヴァンドラム(トラヴァンコール藩王国の首都。現ケーララ州都ティルヴァナンタプラム)の自宅の土地を一部売却し、その資金で藩王国内初の映画スタジオを創設する! 「これからは映画だ」と言う希望のもと、史劇や神話劇が中心のインド映画に対抗して現代が舞台の家族劇を作ろうと企画するダニエルだったが、主演女優のなり手がいない。ボンベイの女優は予算を食いつぶすだけのために追い返し、妻ジャネットを始め地元の女性たちは「お芝居なんて」と逃げるのみ。そんな中、お祭り用の舞台で踊るクリスチャンに改宗した元ダリット(被差別カースト)の少女ロージーを見つけたダニエルは、嬉々として彼女をスタジオに迎え入れ「君を主演女優として雇いたい」と説得。周囲の人々も「映画ではカーストなんて存在しない」と彼女と彼女の家族を説得し、映画製作にのめり込んで行く。 そして1928年11月7日。ついに世界初のマラヤーラム語映画「Vigathakumaran(さらわれた子供)」は公開される。地元名士たちを迎え入れ、大々的な開幕式を行うダニエルだったが、名士たちはロージーの顔がスクリーンに映されると突然激高し始めて……。 ***************** それから約40年後の1966年。 映画記者チェランガット・ゴーパラクリシュナンは、今まで知られていないマラヤーラム語映画「Vigathakumaran」の公開記録を見つけ、その製作者であるはずのマラヤーラム語映画黎明期の偉人J・C・ダニエルを探し始める。しかし、その所在を知る人も、彼の名を知る人も、そのフィルムを見たと言う人すら誰一人いない…。 プロモ映像 Katte Katte インド映画100周年を記念してく作られたマラヤーラム語(南インド ケーララ州の公用語)映画(*1)。 チェランガット・ゴーパラクリシュナン著「Life of J. C. Daniel」および、ヴィヌー・アブラハム著「Nashta Naayika」を原作とする、現存しない史上初のマラヤーラム語映画「Vigathakumaran (The Lost Child)」をめぐる顛末を描いた映画。タミル語吹替版「J. C Daniel」も公開された。 日本では、2013年IFFJ(インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン)にて監督来日の上で上映。 世界初のマラヤーラム語映画を企画・製作しながら、その偉業を認識できない当時の社会状況に翻弄されて、歴史の中に忘れ去られた実在の人物J・C・ダニエル(1900誕〜1975没 本名ジョセフ・チェライヤ・ダニエル・ナダル)の半生を描きながら、映画黎明期の初心者たちだけで製作される現場の熱気、その映画が失われて行く歴史上の悲劇と混乱、ケーララ州とタミル・ナードゥ州の社会状況や行政区分に翻弄され行き場を失って行く映画人の人生を描き出す1本。 インド映画の父パルケー監督や、タミル映画の父ムダリアル監督の撮影現場なんかも再現されて、20世紀初頭の産まれて間もない成長産業の映画界を導入部に、インド人がインド人のために産業を興し、芸術で世界と対抗しようとする様は活気に満ちあふれていて美しい(*2)。 キリスト劇しかやった事のない日曜役者が、映画撮影に呼ばれて「なんで1部分ずつ芝居を切らないといけないんだ?」「演技してるのに声をださないってどう言うこと?」「カメラを客と思えってなんだよ?」といちいち納得できない様はコミカルで楽しい。サイレント映画の撮影って、身振りがおっきくなるのはそうだろうと思ってたけど、声出してなかったってホントなんすか!? 実在の人物J・C・ダニエルの青年期と老年期、さらにその息子ハリスを演じたのは、俳優兼プロデューサー兼プレイバックシンガーとして、主にマラヤーラム語映画で活躍するプリトヴィラージ(本名プリトヴィラージ・スクマラン)。映画俳優の両親を持ち、学生時代から兄弟で演劇などを製作。オーストラリア留学中に映画監督の推薦でスクリーンテストを受け、紆余曲折の末2002年に「Nandanam(花園)」で映画&主演デビュー。同年に、それより早く撮影に入っていた「Nakshathrakkannulla Rajakumaran Avanundoru Rajakumari」も公開されている。 後半の主人公、こちらも実在する映画記者のチェランガット・ゴーパラクリシュナン(1932誕〜2010没)を演じたのは、名優スリーニヴァサン。ケーララ州立大学卒業後にチェンナイの州立M.G.R.フィルム・テレビジョン・インスティテュートに学び、1976年のマラヤーラム語映画「Manimuzhakkam(ベルを鳴らせ)」で映画デビューした、映画俳優兼脚本家兼監督兼プロデューサー。 やはり実在の人物で、マラヤーラム語映画初の主演女優となり、完成作を見る事なくその偉業を抹消されていたP・K・ロージー(1903誕〜1975没)を演じたのは、これが映画デビュー(らしい? データが出てこない…)のチャンドニー。 監督を務めるのは、マラヤーラム語映画で監督・脚本家・プロデューサーとして活躍するカマル(本名 カマルッディン・モハメッド・マジェード)。キリスト教系の大学在学中に映画界に入り、助監督を経て1981年「Mizhineer Pookkal」で監督デビュー。その活躍を認められ、MACTA(マラヤーラム語映画技術者協会)総書記やケーララ州映画アカデミー幹部を経て、現在、FEFKA(ケーララ州監督組合)の理事長に就任している巨匠。 大量の資金がかかる映画製作で、コストを抑えつつ「とにかく良いものを作れば、自然と認められ資金回収もできるさ!」と楽観的に前へ突き進む映画人たちの朗らかさは清々しいながら、「お金がないなら土地を売ろう」と言う台詞が何度も出てきたり、被差別民のロージーが高位カーストの衣裳やアクセサリーに尻込みするのを笑いながら「これからはカーストなんて関係ないわ」と彼女を着飾らせる描写、一緒に同じ料理を食べようとする現場の人の幸福感と、ロージーの家庭での実情とのギャップが映されれば映されるほど、OPの燃えるフィルムのシーンとダニエルたちが嬉々としてフィルムを眺めるシーンが出て来るたびに「ああ…なんかいやなフラグが立ちまくってるけど、どうかこの人たちは幸せになって行きますように…」なんて願わずにはいられない。もちろん、そんなフラグはしっかりハッキリ中盤で回収されるんだけど…。 後半の、現実を前に夢破れる映画人たちの悲劇はもう、人生とはなんと短く、人の夢見る未来は遥か幾世代も先にならないと実現しないものか…と達観(諦観?)したくなるようななんとも言えないわびしさを見せつけてくれる。 エジソンやリュミエール兄弟を代表とする、世界中にいた映画発明者もまた、映画に夢破れていくわけだし、ゴッホを引き合いに出すまでもなく、芸術に関わらざるを得ない人々はあまりにも先を見通し得たが故に、現実に潰されて行く様は儚く、哀しい。 それでも、そんな人々の苦悩の歴史があってこそ、今の、そしてこれからの表現文化の基礎が作られていくと言う意味では、歴史上欠くことのできない人物であり事件であり、彼ら彼女らなくして「今」はないんだよなぁ…なんて色々メンドくさい事を考えてしまう。 ダニエルの晩年の描写、史上初のマラヤーラム語映画が消失してしまう経緯の描き方、1992年のJ・C・ダニエル賞創設のいきさつなんかは、なんとも叙情的で皮肉かと勘ぐりたくなるほど美しい画面。その空気感、そこはかとなく流れる詩的空間は、まるで小津映画ですわ…。 挿入歌 Enundodi / Enundodee / Yenithonnm
受賞歴
「セルロイド」を一言で斬る! ・人が一生のうちでもがき苦しんでも、事態は全く進展しないかもしれない。けれど、それが歴史になった時には、あるいは……と思う事もまた苦しい。ああ人生とは。
2013.12.27. |
*1 一部、タミル語やヒンディー語、英語も入る。 *2 当時はまだ、英領インド時代(ケーララ南部はトラヴァンコール藩王国時代)だしね…。 |