インド映画夜話

Dhool Ka Phool  1959年 154分
主演 マーラー・シンハー & ラージェンドラ・クマール & スシル・クマール
監督 ヤーシュ・チョープラー
"一緒に帰ろう…お母さん"




 大学生のミーナ・コースラーとマヘーシュ・カプールの出会いは、大学構内での自転車事故だった。

 それをきっかけに大学イベントなどを経て恋人同士になった2人は、ある雨の夜に一線を越えてしまい、マヘーシュの里帰りの朝にミーナの妊娠が発覚する。
「私にはもう、夜と暗闇しかないの。お願い…私と結婚して」
「ああ、もちろんだ。帰って親父に結婚させてくれるよう頼んでみるよ。待ってて。すぐに戻ってくるから…」
 マヘーシュの返事に喜ぶミーナだったが、それ以後マヘーシュからの連絡は途絶える。里帰りしたマヘーシュは、自分の就職先を斡旋してくれると言う父の友人の富豪ラーイ・サーヒブの娘マルティ・ラーイとの見合い結婚の席に駆り出されてしまい、抵抗むなしく結婚話がトントン拍子で進んでいくのを止められないでいたのだから…。

 いくら待ってもマヘーシュからの連絡がないため、ついにミーナはマヘーシュの実家を訪ねに旅立ったのだが、そこで見たものは見知らぬ女性と結婚式を挙げるマヘーシュの姿…!!
 絶望に打ちひしがれる彼女を、事情を知った養父母である叔父叔母は「汚らわしい女! 家名に泥を塗るつもりか!!」と罵倒し、家から追い出してしまう。もはや生きる道を断たれたミーナは自殺しようとするものの、追いかけてきた祖母ガングー・ダーイがなんとか引き止め、自身の小さな家に匿うことを約束する…「私の小さな家の扉は、貴女のために開かれています。貴女を陥れた罪人の罪の証が、この世に足跡を残すようになるまで待ちましょう。そして、卑劣な男の扉に投げつけてやるんだよ。だから泣かないで…泣かないで…」


挿入歌 Tu Hindu Banega Na Musalman Banega (君は、ヒンドゥーにもムスリムにもならないよ [君は人間。人間として成長するのさ])

*ミーナが森に捨てた赤ん坊を拾い育てるアブドゥル・ラシードは、「捨て子を助けた」事は尊いと褒めながら誰もその捨て子を引き取ろうとせず、さらには捨て子を育てようとする自分を「どの宗教の子か分からないのに育てようなどと、宗教をバカにしている」などと罵倒する町の人々を嫌い、独力で赤ん坊を人間として育てようと決意する。ヒンドゥー教徒だろうとイスラーム教徒だろうと、人を導き救う事こそが宗教のあるべき姿だと言う彼の信念の実践・宗教を騙りながらそれを利用して商売や勢力拡大を狙う現代人の情けなさを、(わりとあからさまに)見せていくミュージカルシーン。
 歌手でもある、アブドゥル演じるマンモハン・クリシュナが実際に歌っている挿入歌でもある。


 タイトルは、ヒンディー語(*1)で「塵の花」。

 本作プロデューサーB・R・チョープラーの弟であるヤーシュ・チョープラーの、監督デビュー作となる家族ドラマ映画。
 後の1977年に、テルグ語(*2)リメイク作「Jeevana Teeralu」も公開。

 映画前半は大学生2人による青春恋愛劇を爽やかに描く映画ながら、中盤から男の裏切りによって未婚の母となってしまったヒロインの零落。男側の断絶宣言による絶望から赤ん坊を捨ててしまったと言う傷を負ったまま人生を生きざるを得ない女性の苦悩、彼女に捨てられた赤ん坊を拾った通りすがりの男のもとで成長する息子を襲う「親なし子」に対する世間の辛辣な態度を描いていく。

 恋愛結婚が認められない男女が、結局は不幸な結末を辿り、その負債が女性側だけに押し付けられる痛々しさ・理不尽さ・社会における男女の格差の歪さを描くと共に、「親である事をやめた親」双方の罪のあり方、養育者がいると言っても親なし子に冷徹であからさまな差別をし続ける世間の頑迷さをこれでもかと描いていく分かりやすいテーマが、家族の断絶と運命的再結集、その断罪のあり方を含めて描いていく家族ドラマになってるのは、ヤーシュ・チョープラー監督のその後の監督作品群・映画人としての軌跡にも影響を与えているかのようにも見えるのは穿ち過ぎか。
 主人公である母親ミーナとその息子ローシャンに、次々と不幸が突きつけられていく展開は、昭和の朝ドラか戦後日本の良心的家族映画にも通じる匂いを感じられるのも一興。

 本作で監督デビューしたヤーシュ・チョープラーは、1932年英領インドのパンジャーブ州ラホール(*3)のヒンドゥー・カートリ家系(*4)生まれ。
 父親は、パンジャーブ州政府の障害者部門会計士。8人兄弟の末っ子で、兄に映画監督兼プロデューサーで、本作のプロデューサーも務めていたB・P・チョープラー(22歳も年上!)がいる。
 70年の歌手パメラ・シンとの結婚から2人の間に、映画監督兼プロデューサーでヤシュ・ラジ・フィルムズ次期会長となったアーディティヤ・チョープラー、男優兼YRFエンタテインメントCEOのウダイ・チョープラーが生まれている。
 映画記者をやっていた兄B・P・チョープラーの家で育ち、工学を学ぼうとしていたものの、印パ分離独立闘争に巻き込まれ東パンジャーブのルディヤーナー(*5)へ移住。その後、映画界への就職を志望してボンベイ(*6)に赴き、I・S・ジョハール監督や一足先に映画界に入っていた兄の元で助監督やカメラマンとして働き出す。1959年の本作で、兄のプロデュースのもと監督デビューし、年間売上4位の大ヒットとそのテーマ性を絶賛されて注目を集めた。
 続く61年の「Dharmputra」は、小説原作ながらヒンディー語映画史上初の印パ分離闘争の悲劇と、ヒンドゥー原理主義と異教徒の親子の葛藤をテーマにした映画となって再度注目を集め、ナショナル・フィルムアワード注目ヒンディー語映画作品賞を獲得。3作目の監督作となる65年の「Waqt(時)」も大ヒットを記録し、フィルムフェア監督賞を受賞。ヒンディー語映画初のマルチスター映画と称され、「喪失と発見」構成の劇の流行など後発の映画へ大きな影響を与える映画となる。その後も数々の監督作で、ヒンディー語映画界に新規トレンドを生み出していく中、70年に兄の手を離れて自身の映画会社"ヤシュ・ラジ・フィルムズ"を設立。自社制作第1号作となる73年の監督作「Daag(汚れ)」でプロデューサーデビューもしてこれまた大ヒットさせている。
 その後も映画監督兼プロデューサーとして数々のヒット作を世に出すものの、80年代に入ってヒット作から遠ざかり不遇の時期が続くが、89年の「Chandni(チャンドニー)」の大ヒットで人気が復活。人気女優シュリーデーヴィーの代表作と謳われるこの映画で、ヒンディー語映画界のバイオレンスブームに終止符を打ち、ロマンス映画全盛時代を作り上げたと絶賛され、インド人のスイス旅行ブームをも生み出していった。
 2012年、ムンバイにてデング熱による入院治療中に多臓器不全を併発して物故される。享年80歳。生前から数々の功労賞を世界中から贈られ、彼の名を冠したヤーシュ・チョープラー記念賞も設立されている。

 中盤以降、主人公以上に存在感を示す捨て子の養育者アブドゥル・ラシードを演じて、フィルムフェア助演男優賞を獲得したのは、1922年英領インドのボンベイ州ヴァルサード(*7 またはパンジャーブ州ラホール生まれとも)に生まれたマンモハン・クリシュナ。
 物理学の修士号を取得して物理学者として働いていた中で、歌唱力の高さから1947年の「Andhon Ki Duniya」や1949年の「Apna Desh(我が国)」の挿入歌を担当して歌手&男優デビュー。以降も歌手兼男優として活躍しながら、視聴者参加型TVショー「Cadbury's Phulwari」で司会を務めて人気上昇。55年の「Railway Platform(鉄道駅)」では男優兼歌手の他、脚本補助も担当。映画界で活躍の場を広げていくうちに性格俳優として有名になり、チョープラー兄弟映画の常連俳優になっていく。
 ヒンディー語映画界の他、1964年の「Main Jatti Punjab Di」をはじめとしたパンジャーブ語(*8)映画にも多数出演。1979年の出演作「Noorie(ノーリー)」で、ヤーシュ・チョープラーのプロデュースのもと監督デビューもしている(*9)。
 1990年、ボンベイの病院にて病死される。享年68歳。

 最初の恋人2人の恋が進んでいく青春劇の麗しさはさすが後々のロマンス映画を牽引したヤーシュ・チョープラー映画と言っていいかもしれないけれど、その後に続く恋愛の破局、捨て子の運命の悲惨さは、物語パターンとは言え前半の爽やかさとは全く別の様相を見せる映画へと様変わりしていく変転具合もすごい。
 アブドゥル・ラシードがコブラに守られている捨て子を拾う奇跡を目の当たりにしながら、それを「徳の高い行為」と賞賛する街のヒンドゥー教徒やイスラーム教徒、その指導者たちが、そうは言っても「親の宗教もわからない子供」に触れようともせず養育する気もないままに、「そんな子供を育てようなんて宗教を馬鹿にしている」とアブドゥルを非難し始める姿は唖然。
 最近のインド映画でも、よく孤児や片親の子供、シングルマザーを「汚れている」とか「生まれが悪い」「道徳的に褒められない」と公然と罵倒し差別し、あろうことか暴力で排除しようとするシーンが出てくるけど、なにが理想の家族像から外れてしまった境遇の人をより排除し差別しようと言う意識と結びつくのか、そんな事やってるから病める者・貧しき者がより救いのない境遇に陥ってより社会不安が広がるんじゃないのとかと、社会保障の感覚の明らかな違いに驚いてしまう。ただでさえ生存競争の激しい人口爆発地域であるインドにおいて、他者の人生の不遇なんて気にかけていたら暮らしていけないほど生活が厳しいと言うことなのかなんなのか…。
 そんな状況に対して、「宗教は人を救うべきもののはずなのに、宗教の名を盾にして赤ん坊をすら救おうとしないとは、それこそ恥ずべき行為だ」と画面いっぱい使って世間を攻撃するアブドゥルの存在感が、その正論とともに輝いていく。世間の人々の、宗教や常識の名を借りた冷淡さ・無関心さこそが社会の終わりなき悲劇の始まりであると声高に語られる、映画を通した世間への攻撃・メッセージの発露は、この頃すでに健在なインドも凄まじい。

 そのアブドゥルによって貧しくもまっすぐに(*10)育った子供ローシャンの未来のために、運命的に裁判所に結集する父母の贖罪のありかた、その決着の姿もまたインド的。ローシャンを、それと知らずに面前で罵倒し差別しまくった父親マヘーシュが断罪されるのはもちろんながら、ある程度ハッピーエンドを迎えることになる母親ミーナもまた「赤ん坊を捨てた」ことによる贖罪を受け入れているのは「ああ…そうなるのか…」って感じでもある。養父であるアブドゥルの涙の決着の様子も、そうならざるを得ないもんなの? って感じではあるけど、経済規模の違う人と一緒に暮らすつもりはないと言う本人の意志なのかな…それはそれで悲しい…。
 最初の青春恋愛映画からは、全く予想もつかない家族のあり方を問う映画の変貌ぶりは、この頃からインド映画のボリューミーさを見るようで感心しますわ。ホント。

 そんな中、この映画でいちばんの驚きポイントは、なんと言っても捨て子ローシャンと友達になる男の子ラメーシュを、当時子役で活躍していた後の大女優デイジー・イラーニー(*11)が演じていることだったりする! 見てる間、女の子だなんて微塵も思わなかったよスゲー!!



挿入歌 Kaise Kahoon Man Ki Baat (心の中の思いを、どう表現すればいいのだろう)




受賞歴
1960 Filmfare Awards 助演男優賞(マンモハン・クリシュナ)


「DKP」を一言で斬る!
・「自転車同士が衝突する」が男女の出会いの黄金パターンのように語られるのは、「曲がり角で食パン加えた転校生と衝突する」レベルって事でいいんですかいね?

2024.8.14.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*2 南インド アーンドラ・プラデーシュ州とテランガーナー州の公用語。
*3 現パキスタンのパンジャーブ州都。
*4 パンジャーブ地方を起源とする民族集団で、カースト化した名称。商業・金融業・弁護士業・絹織生産などの特殊技術業などに従事する人が多い。シーク教を生み出し、かつてのシーク帝国の中心的存在となった。現在でもシーク教、ヒンドゥー教双方に拡大。ヒンドゥー・カートリは、その内ヒンドゥー教各宗派に拡大している集団。
*5 現インドのパンジャーブ州ルディヤーナー県ルディヤーナー。
*6 現マハラーシュトラ州都ムンバイ。
*7 現グジャラート州ヴァルサード県内。
*8 別名パンジャービー。北西インド パンジャーブ州の公用語。パキスタンでも言語人口の多い言語。シーク教の教典で用いられている言語でもある。
*9 この映画で、フィルムフェア監督賞ノミネートしている。
*10 紆余曲折はあり、逮捕とかされて裁判にかけられたりするけど。
*11 映画監督ゾーヤー・アクタル、映画監督兼男優ファルハーン・アクタル、映画監督兼振付師ファラー・カーンなどの伯母。