インド映画夜話

Elektra 2010年 131分
主演 ナヤンターラー & マニーシャー・コイララ
監督/脚本 シャヤマプラサード
"罪に対する報酬は、罪そのもの"




 その日は、アマラトのエイブラハムの葬儀が行われていた。
 彼は、ジャフナ(*1)の農園から帰宅したその夜に亡くなっていて、家族は急な彼の死を嘆くばかり…。
 「神父様、彼の訃報を私に通報した人物がだれかご存知ですか? その…電話越しに教会の鐘の音が聞こえたのですが…その人は、エイブラハムは殺されたと言ったのです」
 「ピーター警部…!! その話は…今はここだけにしましょう…なにしろ、この家は古くからの伝統を持つ家。人の恨みを買うことも多いだろうから…」

 葬儀の間中、エイブラハムの娘エレクトラは、険悪な間柄の母ダイアナと突然の父の死についてお互いに非難し合っていた。彼女は、家の伝統を嫌う母が、勘当された叔父イサとの不倫を望むために父を毒殺したのだと責め続け、ダイアナを憔悴させていく。
 翌朝、遅くに目覚めたダイアナは世話役のローラから「エレクトラが、兄ピーターと共に彼女の弟のエドウィンを迎えに行った」と聞いて狂乱する…「あの娘は狂ってるのよ。昨日も私が夫を毒殺したと喚いていたし、息子が帰ってきたらあの娘がなにをするのか分かりゃしない! 止めて!! ピーターに連絡して2人を出会わせるのを止めてちょうだい!!」


プロモ映像 Ekakiyaayi


  TV業界出身のシャヤマプラサードの8作目の監督作となるマラヤーラム語(*2)映画。
 この映画は、2010年のIFFI(インド国際映画祭)で初上映され好評を得たものの、続くケーララ国際映画祭での上映とともに、その物語の官能性を指摘する抗議も殺到して、その裁判にてなんども一般公開が延期されたと言う。

 物語は、ギリシャ悲劇の「エレクトラ」(*3)を現代インドに翻案したもので、それらの翻案舞台化でもあるアメリカの劇作家ユージン・オニールの戯曲「喪服の似合うエレクトラ(Mourning Becomes Electra)」もアイディア元にしていると、エンドクレジットで表記されている。

 緑濃いケーララ中部の森の中の屋敷を舞台に、鬱々とした悲劇を表すような雨曇りの空模様の湿気た空気を濃厚に伝えようとでもするかのような、画面の湿り気具合がなんとも重い空気で全編を支配する心理劇。
 と言っても、エイブラハムの死因について探るサスペンスではなく、各登場人物がそれぞれに持つ暗い情念と罪の意識、そのどうにもできない贖罪の在りようを見せつける映画で、ギリシャ悲劇を引き移すように会話劇中心に構成されている。

 ユング心理学で言うところの「エレクトラコンプレックス(*4)」の名称元となるエレクトラの伝説は、夫を殺して愛人を迎え入れた母を許せなかったエレクトラが、弟をけしかけて母親を殺させる悲劇(*5)である。
 ギリシャ悲劇の筋書きでは、そこに父親への過渡な愛情はなくて(*6)、王族の仇討ちと夫婦の正義を守るために不遇の身に追い込まれたエレクトラの復讐譚になってるわけだけど、本作では夫婦のすれ違い・妻の夫やその家系の伝統への不満はそのままに、その死因をミステリー仕立てにして主人公エレクトラの思い込みと父親への執着が悲劇をより拡大させていく様を、多少エレクトラコンプレックスを取り入れた形で描いていく。
 主題となるは、家族間の相互不信であり、それによって起こった出来事へのそれぞれの贖罪、人生における「罪の意識」との向き合い方のやるせなさ・どうしようもなさの方に物語は向かっていく。
 主要登場人物は全員、自分の現状に対しての不満と悔恨、「こんなはずではなかった」とする自我の揺れに襲われていて、なんとかそれに理屈をつけて解決しようと進む2人の女性…母親ダイアナと娘エレクトラ…の対立が激しくなればなるほど、悲劇を止める手立てはなくなってしまい、最終的に全員に取り返しのつかない不幸が訪れることになる。
 特にこの2人の女性の葛藤が中心に来ているので、父親と愛人、直接人殺しをすることになる弟エドウィンの物語内での扱いは軽い。…けど、結局自滅していくしかない登場人物たちの「人を信じたいのに信じられない絶望」の重さは、主役級のダイアナとエレクトラのそれと同等なショックを見てるこちら側に与えてくれますわ。

 監督を務めたシャヤマプラサードは、1960年ケーララ州パラッカド生まれ。
 父親はインド人民党員の政治家O・ラージャゴーパルになる。
 演劇の学位を取得後、奨学金を得て英国留学してメディア製作の修士号も取得。BBCなどでインターンを務めた後、インドの国営TV局ドゥールダルシャンに入ってマラヤーラム語TV映画やドキュメンタリーを作り続けて数々のTV賞を獲得。その後にアムリタTVの編成局長となる。
 98年のマラヤーラム語映画「Kallu Kondoru Pennu」で劇場作品監督デビューを果たし、続く2作目の監督となる99年の「Agnisakshi(証となる炎)」で脚本家デビュー。ナショナル・フィルムアワードのマラヤーラム語映画注目作品賞他多数の映画賞を獲得する。以降も、マラヤーラム語映画界で活躍する中、13年の「Pattam Pole(凧のように)」にカメオ出演。翌14年の「1 by Two」で正式に俳優デビュー。自身の監督作となる18年の「Hey Jude」では、さらに作詞も担当している。

 自身もキリスト教東方教会の家生まれのナヤンターラー(*7)が、その出自と共通するかのようなケーララの古来からのクリスチャン家系の娘を演じるその配役も意図的な感じがするけれど、母を疑い殺意を向ける良家の娘の苦悩・若さ故に止まる事ない潔癖さの暴走を迫真の演技で演じてるところに「おお、こんな役もできるのね!」って役者魂を見るよう。
 母親ダイアナ(*8)を演じるのは、本作がマラヤーラム語映画デビューとなるマニーシャー・コイララ(声は女優プラヴィーナの吹替)。本作のアイディア元となるギリシャ悲劇に該当する母親役のクリュタイムネストラは、現存するギリシャ悲劇の中でも最も苛烈かつ強固な女性キャラとも評される役だけども、本作では終始受動的な立ち位置を守り、そうして生きて来た自分に対する憤りから夫を捨て義弟に逃げようとする決意を固めるものの、家の使用人や実の娘にそれを否定されてしまう哀しさを余すところなく演じきる。やっぱ、マニーシャーは不幸顔が似合う女優ってことですかねえ…。本作公開の10年は、故郷カトマンズで結婚した年でもあるけれど…結婚生活に絶望する母親役がよく似合ってましたわ…(*9)。

 夫婦間のすれ違い、親子間のすれ違いが続くことによって自らを悲劇の中へと落としていくしかなくなる人の頑迷さは、まさに古来より続く人を人たらしめる哀しさか。家族という拠り所を、幸福の中心に描くインドの物語にあって家族の分裂と不和を描くギリシャ悲劇のそれは、無意識下で形成されるそれぞれの家族観の中に潜むなにかを現して来るよう。最後には神による救済が用意されていたギリシャ悲劇(*10)と違い、こちらは徹頭徹尾止まらない贖罪の悔恨のみに支配されたやるせない人の世の物語。現代のエレクトラは、どこまで行っても求めるべき幸福に辿り着けないと言う事なのか、あるいは…。

挿入歌 Arikil Varu


受賞歴
2011 Kerala State Film Awards 監督賞・吹替演技賞(プラヴィーナ)


「Elektra」を一言で斬る!
・「Isaac(イサク)」の発音が、時によって「イサ(イーサ?)」「アイザック」「イザハック」と聞こえるけど、どれも同じ音という認識なんだよね…?(強調する時に読み方が変わるってのは、あるだろうけど)

2021.6.11.

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*1 スリランカ北端の都市。かつてのスリランカ内戦の激戦地。





*2 南インド ケーララ州の公用語。
*3 アイスキュロス版「オレステイア3部作」、ソポクレース版「エレクトラ」、エウリーピデース版「エレクトラ」の全て。
*4 女児が、父親への独占欲のために母親を憎悪・対抗しようとする心理状態。エディプスコンプレックスの女性版のことだけども、フロイト派ではどちらも「エディプスコンプレックス」と呼んでいてエレクトラの名前を採用していない。
*5 個人的には、何度読んでも「ハムレット」だなあ…と思ってしまう物語構造。こっちの方がずっと古いんだけど。
*6 ないことはないかも、だけど。
*7 本作公開以後の11年にヒンドゥー教に改宗してるけど。
*8 ナヤンターラーの生誕名と同じ名前!
*9 という言葉が褒め言葉になるのかどうか…ウーム。
*10 エレクトラに、ではなかったけども…。