哀願 (Guzaarish) 2010年 116分 ゴア近郊の大邸宅に住む、高名なマジシャン イーサン・マスカレーナス。彼はある事故が元で、首から下の四肢麻痺の生活を強いられて14年になる。 そんな彼を支えていたのは、友人で弁護士のデーヴヤーニー・ダッタ、イーサン担当の医師ナーヤク、イーサンが設立したラジオ・ジンダギのリスナーたち、そしてなによりも、彼の介護を1日も欠かさず行なう看護士のソフィア・デスーザ…。 ある日、ソフィアは新聞記事から、イーサンが"尊厳死"の嘆願書を裁判所に提出した事実を知り仰天する。彼に裏切られたと憤る彼女だったが、イーサンを慕って弟子志願にやって来たオマル・スィッディーキーの登場で勢いをそがれ、彼の説得が不可能と見るやただ日常の介護にのみ専念するように。 そんな毎日の中で彼女は徐々に、12年の付き合いでもある彼にとっての幸福とはなにかを考え始めていく…。 ある日、デーヴヤーニーの提案から、裁判所で却下されたイーサンの尊厳死請願を大々的に発表して、世の中にその是非を問う"尊厳死キャンペーン"が始まる。人々は、こぞって彼に「死なないでほしい」と嘆願してくるが、ただ一人「賛成です。貴方を愛しているから」と語る女性が現れる…。 挿入歌 Udi (光輝) 女優アイシュワリヤーを一気に世界的大スターに押し上げた名作「ミモラ(Hum Dil De Chuke Sanam)」を手がけ、その独特な映像美には定評あるサンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の作品であり、インドでは違法とされる「尊厳死」を巡る重厚な映画。 日本では、2015年の「インド映画同好会 大映画祭」にて上映。 「大いなる遺産」ばりのゴシックな香りのお屋敷とそこで働く使用人、クラシカルな匂いのするファッションの様子に、なんとなく近代を舞台としてるんかと思ってたけど、普通に携帯電話が出てくる現代劇のロマンス映画。 …そう、この映画は重厚な映像美や、尊厳死をめぐる重い問いかけがありながらも、基本はイーサンとソフィアの両者が織りなす秘めた幻想的なロマンスの物語である。 サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督の映像美はあいかわらず圧巻。 青や赤・黒を基調とした画面構成、差し込む光線や揺らぐ風も計算に入れた映像美の数々は、インド映画特有の色彩とは全く異なるものだけれども、その映像構成の完成度は他の追随を許さない独特なものを作り上げて、一連の監督作の集大成とも言える完成度を誇る。…ために、これを許容できないと最後までノリについていけないまま終わってしまう。 お話は、イーサンの人生観をひもときながらの人生讃歌・幸福讃歌になってはいるけれど、多少観念的すぎるきらいは…ある。リティックなんか、もっと病的な顔しててもよかったのにねぇ…と思いつつ、スター映画でそんな注文も酷かなぁとか色々余計な事を考えてしまけど、その映像美に浸りきってしまえばそれはそれで些細な事に思えて来てしまうからあら不思議。主役のリティックとアイシュのコンビはあいかわらず絶妙で、ユーモア交えたシーンは楽しげに、鬼気迫るシーンでは凄まじい眼力で見る側を圧倒してくれます。 ステージパフォーマーとしての人生を断たれた男と、その男の介護に人生の全てを注ぎ込むことを決意した女との、酸いも甘いも飲み込んだロマンス劇が中心ながら、同時にキリスト教的な"博愛のもとの自己犠牲"もキーとしても盛り込まれている(*1)。 ただ、ゴアに住むキリスト教徒が諧謔的な扱いで登場したり、イーサンの屋敷に雨ざらしのキリスト像なんかがあったり、イーサンの尊厳死を関係者への贖罪的に描いていながら「あくまで、このケースは彼独自の意志によるもの」と強調したりと、「自己犠牲」と「人それぞれの幸福追究のあり方」が相反しながらも対立せずに描かれるあたり、サンジャイ監督独自の美学でしょうか。 過去のイーサンが魅せるマジックの数々も、CG処理されてるとはいえ幻想的でそのイメージ喚起力のハイレベルさ、ゴシックロマンな物語とピッタリ合わさってえも言われぬ映像美を発揮している(作り込みすぎ…と言えば言えるけど)。 にしても、あいかわらず裁判シーンは難しい単語がバシバシ出るねぇ…(一文一文が長いしぃ)。 挿入歌 Jaane Kiske Khwaab (これは誰の夢なのだろうか)
受賞歴
2012.5.19. |
*1 ゴアが、キリスト教徒の多い都市だから? |