Jhansi Ki Rani 1953年 135分(148分、160分とも。短縮版は96分)
主演 メヘターブ & ソーラブ・モディ
監督/製作 ソーラブ・モディ
"我らがジャーンシーよ、永遠なれ"
挿入歌 Humara Pyara Hindustan (我が愛しのインドよ)
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*セポイの反乱に始まる第1次インド独立戦争の嵐が、徐々にジャーンシーに到達して行く様を歌い上げる愛国歌!
時に1838年。
自身の王位継承と引き換えに、インド支配を進める東インド会社に国権の多くを譲渡したジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオに激怒したラージグル(=王宮師範)は、王宮を捨てて旅立ってしまう。その旅の中、彼はヴィットゥにて勇敢で賢いブラフマン(=バラモン)の少女マヌーを発見する事に。
ここでラージグルは、一計を案じる。この若干9才の少女マヌーをガンガーダル藩王と婚約させ、正式な結婚までの間に王族に相応しい武芸と教養を習得させるとともに、過去に自由のために戦ったインドの戦士たちの歴史を学ばせることを決意。こうして、10年後には彼女はジャーンシー藩王国の勇敢なる"女王ラクシュミー・バーイー"へと成長。藩王国の内政を取り仕切り、国民からも慕われる誠実な女王と言う評判を勝ち取っていった。
しかし、待望の時期王位継承者となる息子ダモダール・ラーオが生後4ヶ月で病死し、その心労でガンガーダル藩王も亡くなってしまうと、王宮側が次期藩王に用意した藩王の甥アナント・ラーオの継承権を認めない東インド会社は、ジャーンシー藩王国を事実上の併合地域とみなしてくる。双方の対立が激化する中、王位継承の儀式を中止せよと乗り込んできた英国人将校を前に、ラクシュミー・バーイーは高らかに宣言するのだった…「我がジャーンシーは、決して放棄せず!!」
劇中ダンスシーン
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1857年にインドで勃発する、東インド会社に対する第1次インド独立戦争(=インド大反乱)の渦中、独立を掲げて挙兵した"ジャーンシーの女王"ラクシュミー・バーイー(1835頃生[諸説あり]〜1858没)の生き様を描く白黒ヒンディー語(*1)歴史大作。
その物語は、ヴィリンダヴァン・ラール・ヴェルマー著の46年の小説「Jhansi Ki Rani」を元にしているそう。
のちに短縮英語版「The Tiger and the Flame(虎と炎)」、ブラジル版「Insurreicao na I´ndia(インド大反乱)」、西ドイツ版「Die Maharani von Dschansi(ジャーンシーの女王)」、ギリシャ版「Sklava vasilissa(奴隷の女王)」も公開。
ヒンディー語版と英語版では、テクニカラーによるカラー版も存在する(*2)。
2019年には、同じラクシュミー・バーイーをモチーフにしたヒンディー語映画「Manikarnika: The Queen of Jhansi」が公開されている他、本作と同じタイトルのTVシリーズも数本ある。
歴史学的には、ジャーンシー(*3)王妃になる前のラクシュミー(幼名マニカルニカー)の様子は諸説あって定かではないみたいだけど、本作では9才(*4)で王宮師範に伴われてジャーンシーに輿入れされたとさらっと描かれるスピーディーな展開に「え? なにその紫の上計画みたいなヤバ目な展開は」と思ってたら、史実では14才でヴァラナシからジャーンシーに輿入れされて来たと言う事で、そう言う異説もあるってことでしょうか…(*5)。
劇中では、輿入れ後に王宮師範から王族として・政治家として・インド人としての知識作法や気概を仕込まれたことが、後の独立戦争の下地になる伏線として描かれている感じで、イギリスの法律や政治にも詳しかったという史実を反映させて、東インド会社の将校たちに一歩も引かずに議論したり、社交界でそつなく過ごしてたり、ジャーンシーの人々の問題を平等に裁決したりと言う名君としての描写もしっかりと描かれて行く。
であればこそ、中盤の子供と夫の死、その後に独立戦争を率いていかなければならなくなる戦士としての女王の姿がより悲哀に満ちたものとなり、幼馴染の英国人やジャーンシーを裏切ろうとする家臣との敵味方入り混じる関係性の変化に、ラクシュミー・バーイーと言う個人の人生の儚さ・哀しさ・強さが強調されて行くことになる…ようにも見えるか。
画面的には、時代的なものもあるせいかわりと平板で舞台的な映像が多く、静かな台詞劇が続くこともあってか微妙に眠気をもよおす部分もあるものの、独立戦争が始まってからは大規模なジャーンシー城攻防シーンが取られていたりと、大掛かりで派手な戦闘シーンは見もの(*6)。
主人公ラクシュミー・バーイーを演じたのは、1918年英領インドのボンベイ州サチン(*7)に生まれたメヘターブ(生誕名ナジマー・カーン)。
父親はサチンのナワーブ(太守)で、母親は映画会社に勤めるプロデューサーだった。
母親の映画会社を通じて、1928年の「Second Wife」あたりから映画出演し、サイレントからトーキーへ移る時代に主にアクション映画に出演。スタント女優として活躍するもなかなかヒット作に恵まれない中、40年の主演作「Qaidi(虜囚)」、41年の主演作「Chitralekha」あたりから人気が高まり、44年のソーラブ・モディ監督作「Parakh」でアンヌアル・ベンガル映画記者協会賞のヒンディー語映画主演女優賞を獲得する。この映画の撮影中にソーラブ・モディとの距離を縮めて46年に結婚(*8)。本作の興行的不発以降女優業をほぼ引退し、本作の後に69年公開のモディ監督作「Samay Bada Balwan」に出演したのを最後に女優引退している。
1997年、ムンバイにて物故。享年78歳。
映画自体の興行的不発で主演のメヘターブも散々に酷評されたそうだけど、見てるぶんには頑張って強き王妃を演じてるよう…まあ、人々を率いるカリスマオーラが特別発揮されてるかといえば「ムゥ」って感じではありますが。
モディ監督は、この映画を作るにあたってラクシュミー・バーイーに関する研究を逐一調べた上でしっかりと歴史考証に則ってっ作ったというので、ある程度ウソのない歴史劇になってる…と思いたいけど、その分、近代史映画によくある動きの少ない画面設計が全編で目立つのが、ウケなかった最大要因でしょうか。幼馴染の英国人将校との友情劇なんかは印象的だったし、当時の大砲合戦なんかは結構リアルに描いてますけども。
にしても、冒頭の謝辞にジャイプールやビーカーネールのマハラジャの名前があるってことは、その辺の土地や遺跡を使って撮影がされてたのか。この話のキモとも言える英国との戦争シーンに、城塞での立てこもりや大砲や梯子を使った集団戦を実際の城塞遺跡(?)で撮影しているだけでも、相当に貴重な映像ですよ皆様!
挿入歌 Kahan Baje Kishan Teri Bansuriya (ああキシャン、あなたのフルートはどこで鳴っているの)
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「JKR」を一言で斬る!
・相変わらず、子役が可愛い&芸達者。にしても、生後4ヶ月で死んだダモダール王子役の赤ん坊が寝ながら『ガクッ』と首を垂れる演技はどうやって撮ったんだろう…。
2019.11.8.
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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*2 52年公開作「アーン(Aan)」とともに、インド映画界初のテクニカラー映画とされ、カラー版の冒頭にそうクレジットされている。
*3 現ウッタル・プラデーシュ州ジャーンシー県の都市。
*4 英語版冒頭で「時に1838年」と言ってるので、女王の誕生は1828年説を採用している…か? 白黒版では年代が出てこないので、この辺はぼかしてる感じだけど。
*5 で、劇中ジャーンシー王国内とされてる女王の故郷ヴィットゥってどこー?
*6 まあ、今見ると結構牧歌的に映る感じではありますが。
*7 現グジャラート州スーラト県サチン。
*8 ただし、異教徒間の結婚だったことから、モディ家には承認されないまま。両者ともに2度目の結婚で、メヘターブ側は息子と同居することを条件に出していたそうな。