紙の花 Kaagaz Ke Phool) 1959年 148分
主演 ワヒーダー・ラフマーン & グル・ダット
監督/製作 グル・ダット
"私は、ずっと貴方を探していた"
ある男が、無人の映画スタジオに入っていく。
そこは、数々の映画を制作していたあの日から何も変わっていない。思い出の中にあるあの頃の様子から。時間とは、なんと慈悲深いものか……
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かつて、その男…気難しい映画監督スレーシュ・シンハーは、撮影が始まった映画「デーヴダース(Devdas)」の協議でボンベイ(現ムンバイ)のスタジオと衝突しつつ孤独な毎日を過ごしていた。妻ヴィーナとは長い間顔を合わせないままで、デヘラードゥーンの寄宿学校に通う娘パンミ(本名プラミラー・シンハー)との面談も拒否されていて誕生日すら祝わせてくれない日々。
ある雨の夜。スレーシュは義弟ロッキー(本名ラケーシュ)と居心地の悪いデリーの婚家を抜け出し、弟と別れて1人で街をさまよい歩く中で雨の中で凍える女性を見つける。その女性にコートを与えて早々に立ち去るスレーシュはその女性のことをすぐ忘れてしまうが、女性は後日わざわざムンバイのスタジオまでスレーシュにコートを返しにやって来た。そこで初めて彼女の顔をカメラ越しに見たスレーシュは、彼女…シャンティこそが撮影中の映画のヒロイン パロ役にふさわしいと会社に掛け合い、仕事探し中だと言うシャンティに女優になってくれと懇願する。
それから大型新人としてお披露目されるシャンティだったが、彼女は常にスレーシュを尊敬し彼の注文に真摯に答えようと必死。ある日、ロケ地へと2人で向かう途中で車が事故を起こしてスレーシュだけが重傷を負うと、無事だったシャンティは彼に付き添い四六時中介護し続ける。世間そんな2人を面白おかしく囃し立て、そんな新聞を見たスレーシュの娘パンミは学校でからかわれ続けたことから、シャンティに抗議しに行こうとボンベイ行きを決意するのだったが…。
挿入歌 Ek Do Teen Chaar Aur Paanch (1、2、3、4と、5)
ヒンディー語(*1)映画界の鬼才グル・ダット最後の監督作。インド初のシネマスコープ映画になった作品だとか。
タイトルは、ラストシーンにかかる劇中歌の歌詞からの命名? 蜜を求めて彷徨う蜂に対して「ここに蜜はないよ。ここは紙の花が咲く所」と、映画界と言う虚構を取り扱う業界・そこにいる自身へ向けた諧謔に満ちた用語か。
本作の興行的失敗によって、グル・ダットは映画監督の道を自ら断ち、役者兼プロデューサーにまわることになるも、64年に死去。その後の80年代に入ってから本作が再評価され、"サイト&サウンド"誌ではオールタイムベスト映画160選の中の1本に選定されている。
日本では、2001年の国際交流基金アジアセンター主催「インド映画の奇跡 グル・ダットの全貌」や、2008年の神戸映画資料館「グル・ダット傑作選」他で上映。DVDも発売されてました。
グル・ダット自身の人生を投影させたかのような主人公スレーシュの栄枯盛衰を軸にして、世間が認めず認識そのものも出来ないかのような「魂の部分で引かれ合う2人」の芸術的感性の震えを詩的に描く1本。
後にヒロイン演じるワヒーダー・ラフマーンが撮影を振り返って「売れないだろうと思っていた」とか言われてしまうが如く、監督&主演を担うグル・ダットの懐古的感性と映画なるものへの私的な(=詩的な?)向き合い方を全部乗せにした映画で、映画人として格調高い映画を求める姿勢と、ヒンディー語映画界の舞台裏を描く事で業界や世間の意識改革を促そうとでもするような語り口が印象深い絵作りになっている。
グル・ダット監督作としては1つの前の「渇き(Pyaasa / 1957年公開作)」と共通するように、ワヒーダー・ラフマーンをこそ自身の映画の女神とするかのような崇拝ぶりを初登場シーンに見せ、「渇き」以上にその意味を読ませようと「雨」と「風」と言う激情・幸運を喚起させる仮託表現で彼女を彩っていく。
劇中のスレーシュがヒロイン シャンティの中に神を見たかのような崇拝ぶりを見せながら世俗の愛(=家族愛)を得ることができないアンビバレンツに苛まれ、既婚者であるがためにシャンティと共にいつまでも映画の中のような密接な関係を続けていけない悲しさに、映画が描く「至上の愛」と対立する現実そのものである「世俗の愛」の虚しさを表現していくさまは、「渇き」以上に世間に対する諦観や虚しさ、自身の人生への達観めいた気持ちの揺らぎを見てしまうか。
後に、カラン・ジョハールが「さよならは言わないで(Kabhi Alvida Naa Kehna)」でハリウッド的な不倫劇を描いてバッシングされてしばらく監督業を休んでいたのと同じような世間(=観客やマスコミ、社会通念)との摩擦を、すでに50年代にグル・ダットが通っていたんだなあ…とか変なところに感心してしまう自分がいますよ(*2)。
ヒロインの美しさ、2人の承認されない関係の行き着く様をこそ描く映画ながら、注目したい点として、劇中における映画人の社会的地位の低さもある。
主人公スレーシュの妻ヴィーナの家は競走馬を飼育する大豪邸に住むセレブながら(*3)、映画業界で高給取りとして働くスレーシュやヴィーナの弟ロッキーの仕事を認めず、さっさと家業なり実業で堅実に稼ぐことを求めて行く。ヴィッキーも映画関連の記事で親の目に止まるのを避けようと必死だし、ヴィーナは映画業界人の夫と一緒にいるのを嫌がる始末。世間の注目集まる人気映画監督であるはずのスレーシュであってなお、富裕層からは俗悪な業界として嫌われ、浮世の商売として蔑まれている描写が、どこまでグル・ダットの実体験の反映なのかわからないものの、ヒンディー語映画界が50〜60年代に黄金期を迎えながらも業界としては低俗と評されていた世間とのギャップが、虚実入り乱れるマスコミ情報や映画作劇の「嘘を本当にする(=思わせる)」効果を対比的に見せる2重映しになっていくよう。映画という虚構の中にこそ自分の全てを見つめて行く映画人の虚しさは、「渇き」以上に皮肉的であり、自嘲的であり、諦観に満ちている。
ある意味では、延々とグル・ダット自身の自分語りや世間に対する愚痴を聞かされていく映画であるし、現在に至るもインド社会では忌避される不倫劇を描く物語でもある映画なわけで、そりゃあ当時の観客が「そんなもん見せられましても」とそっぽ向くのも無理ないとは思いますわ。
それでも、劇中の愛を越えて引かれ合う2人が製作している映画が、結ばれることのない悲劇の恋人たちの物語「デーヴダース」であると言うあからさまな対応関係になってる事、映画監督と新人主演女優と言う映画を通してのみその関係性が濃い繋がりになっていくかりそめの関係(*4)が強調される事で、「映画という嘘に翻弄される、人なるもの」を見つめていく映像詩へと昇華された映画として、いつまでも語り続けられるであろう名作でありましょうか。
挿入歌 Ud Ja Ud Ja Pyaase Bhaware (飛べ、彼方へ飛べよ、飢えた蜂よ [ここに蜜はない。ここは紙の花が咲くところ])
*映画ラストシーンにかかるソングシーンのため、それなりにネタバレ注意。
受賞歴
1960 Filmfare Awards 撮影賞(V・K・ムルティ)・美術監督賞(M・R・アチャーレカール)
「紙の花」を一言で斬る!
・インドの映画監督も、パイプでタバコ吸うのがトレードマークなのね!(売れなくなってからシガレットになってたけど)
2024.8.1.
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