Lakshmi 2014年 113分(104分、115分とも)
主演 モナーリー・タークル
監督/製作/脚本/原案/出演 ナゲーシュ・ククヌール
"我々は、本当に人なのか?"
村から売られて来た14才のバンガール・ラクシュミーは、ハイデラバード郊外で他の少女たちと別れさせられ元締めのレッディ旦那の元へ連れられて行く。彼女は、その屋敷で働くものと思っていたのだが、医者の往診によって衰弱した身体が回復して来た晩、旦那が帰ってくるなり寝室に閉じ込められ…
数日後、再び人買いチンナに引き渡されたラクシュミーは、そのままハイデラバード下町の売春宿ダラム・ヴィラスに連れていかれ、その日から仕事をするように命じられる。たまらず夜のうちに逃げ出したラクシュミーは近くの交番に逃げ込むものの、警察はチンナの名前を聞くなり彼女をチンナの手に引き渡すのだった!
売春宿に戻ったラクシュミーは、一人が逃げ出すたびに同室の売春婦と世話役のジョディがチンナに袋叩きにされると知らされ、周りに従う他なくなり売春婦としての日常を受け入れざるを得なくなってしまう。
そんなある日、チンナが郊外の屋敷の客のために出張する少女を募った折、同室のスヴァルナに請われて立候補したラクシュミーは、農場屋敷での仕事のスキを見て再度逃げ出そうとするが、すぐにチンナに捕まってしまい…!!!
ED Hai Reham Hai Karam (主よ、慈悲深き主よ)
タイトルは、主人公の名前。よくあるヒンドゥーの女性名で、富と豊穣、幸運を司る女神(*1)の名前でもある。
名匠ナゲーシュ・ククヌールの12作目の監督作となる、インド農村地域にはびこる人身売買と児童買春・女性蔑視問題をテーマにした社会派ヒンディー語(*2)映画。
本作は、当初検閲委員会から公開認可を得られなかったものの、米国カルフォルニアのパルム・スプリングス国際映画祭にて観客賞を獲得した後にインド本国で一般公開許可が出されたそう。
1977年のマラヤーラム語(*3)同名映画を始め、数々の同名映画が存在するけれども全て別物。
重い。これが、インドの現実をもとにしているであろう事がわかるがゆえに、余計にそこに流れる想像を越えた悪意や蔑視、人を人と見ていない暴力性の暴走から、そんな現実の中でしか生きる術を持たない人々の覚悟と諦観の全てが……かくも重い現実というものを見せつけてくる。
貧困から来る女児売買、法の手を逃れるために水面下へと潜り続ける違法売春業、裏切りと暴力でしか人間関係を維持できない人々…何度となくインド映画で描かれるインドの闇が、今尚人々の悪意と欲望を満たすために存在し続け、暗闇に潜り続けるが故に法の救いは対処療法でしかなくなり犠牲者の救済はより困難になり続け、それを良しとする大人たちの論理が状況の悪化を促進させ続ける。
映画後半に始まる、ラクシュミーの起こした裁判によって次々と暴露される事柄が、親兄弟と言えど信用できず、男女を問わずこの闇の拡大に手を貸してその日その日を暮らし続けている複雑怪奇な現実の有様をも映し出す恐ろしさ。
娘を売って平気な顔して「裁判を中止してくれ」と自己保身のために娘の前にやって来る父親、同じように平然と金で示談にしようとラクシュミーの前にやって来る仲介業者の女性、ラクシュミーを始めとした処女を屋敷に連れ込んで夜の相手をさせていた旦那の吐き気をもよおす程の真意が暴かれる瞬間…女性蔑視とともに、大人が自分たちの都合で子供達の人生を踏みにじる、その頑迷な自己保身の恐ろしさが、救いのない世の中の現実をこれでもかと突きつけて来る。人の善意というものの、なんと儚く無意味なことか…。
タイトルロールとなる主人公ラクシュミーを演じたのは、1985年西ベンガル州カルカッタ(現コルカタ)生まれの、歌手兼女優モナーリー・タークル。
父親はベンガル語(*4)映画界で活躍する歌手兼男優のシャクティ・タークル。姉に、やはり歌手のメフリー・タークルがいる。
コルカタの学校に通っている頃から音楽とダンスの特訓を始め、学内行事で活躍。99年のベンガル語映画「Chena Chena」の挿入歌"Choi Choi Choi Tipi Tipi"を担当し、同年にTVドラマシリーズ「Shri Ramkrishna」の主題歌も担当して歌手デビュー。若干14才にしてアナンダロク・アワードの歌手賞を獲得する。
06年に才能発掘TV番組「Indian Idol Season 2(インディアン・アイドル2)」で世間的な注目を集め(*5)、同年公開の「Jaan-E-Mann(愛する人よ)」の挿入歌を担当してヒンディー語映画にも歌手デビュー。翌07年には、ベンガル語映画「Krishnakanter Will」に端役出演して女優デビューもしている(*6)。以降、この2つの言語圏の映画・TV業界で活躍して徐々に知名度を上げていった。
13年の「Madha Yaanai Koottam(狂象たち)」でタミル語映画での歌手デビューもしていて、14年の本作で主演デビューを飾る。以降も歌手兼女優として活躍中で、13年の「略奪者(Lootera)」15年の「ヨイショ! 君と走る日(Dum Laga Ke Haisha)」などでナショナル・フィルムアワード他の数々の映画賞の歌手賞を獲得している。
内容も凄まじいけれど、その凄まじい役柄を演じる役者陣もトンでもねえ迫力。
特に、完全な悪役である無慈悲なポン引き男チンナを演じるナゲーシュ・ククヌール監督自身(*7)の迫力と、それに対抗する立ち位置にいる世話役ジョディを演じているシェファーリー・シャーの「売春婦を束ねる宿の主人であり、チンナたちの無茶な要求に答えて宿の売春婦たちの世話をする世話役であり、何も知らぬ娘を育てる母親である」複雑な役柄を演じる鬼気迫る演技の凄まじさは、物語の過酷さを上回るパワフルさ。その両者の関係性の残酷さ、自分がどんなに外道であるかも理解してないようなチンナの暴力性も、一度警察たちに救出されながらも結局は同じ売春宿の世話役に戻っていくジョディの人生の厳しさも、その残酷な対立を繰り返して到達する最終局面への布石となり、主人公ラクシュミーの運命以上のインパクトと恐ろしさを体験させて来る。見てるこちら側の暴力性のあり方を試すかのような展開そのものこそが、とんでもない構図ですわ…。
後半の、一旦は警察に救出された売春婦たちにカゴ作りの仕事を与えて生計手段を見つけさせる描写も、一見救いの描写に見えながらも結局はガサ入れ後に「家出少女たちを保護・更生させる施設」と偽装して売春業が再開されている事、ジョディを始め売春婦たちが暮らしを維持するために結局は売春業に戻っていく様を見せつけて来る事で、その救済そのものが大いなる皮肉になっていく悲しさもまた、現実の反映だろう描写も重なってなんとも…。法律が追求すればするほど、違法業者たちはそれぞれに法の届かない底の底へと隠れ去り、そこに巻き込まれた犠牲者たちがより孤立し救いのない状況へと叩き落とされて行く。
ラクシュミーが起こした裁判の顛末が描かれる映画後半は、世間の好奇の眼にさらされながら自身の身に起きた不条理を徹底的に問いただすラクシュミーの強さが、稀に見る弁護士の力強さを引き出す幸運を導き出し、その結果はより多くの犠牲者たちへの救済へと繋がって行く希望を勝ち取るように見えるものの、その光景を見ることすら叶わぬ闇の中に閉じ込められた人々の数もまた、気にしないではいられない現実が横たわっていると言う世の中は、どんな言葉でも表現できない残酷さを見せてきますわ…。
挿入歌 Sun Sugana Re (聞いて、スグナ [足首に銀の飾りをつけて母の祝福を持って行きなさい])
受賞歴
2014 米 Palm Springs International Film Festival 観客選出注目物語賞
「Lakshmi」を一言で斬る!
・法の下での犠牲者たちの救済法と言うのは、どうやっても限界があるよなあ…と言う点もまた救いがない。救済が本当の意味での救済になればいいと祈りつつ…
2023.7.15.
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