ミスター&ミセス・アイヤル (Mr. and Mrs. Iyer) 2002年 120分 西ベンガル州の山間部にて、カルカッタ行きのバスをまつ動物写真家ラージャ・チョウドリーは、現地取材の便宜を図ってくれたタミル系ブラーミンの森林監査官から、娘ミナクシ・アイヤルとその生まれたばかりの息子サンタナムのカルカッタまでの世話を頼まれ、快く引き受けながらバスに乗り込んでいった。 山道を下っていくバスの旅は、騒がしい大学生たち、イスラム教徒の老夫婦、新婚夫婦、シーク教徒のビジネスマン、トランプゲームに盛り上がる男たちや静かな母子などを乗せて、騒がしく進んでいくが、道路封鎖のために迂回路をとったバスは大渋滞に巻きこまれてしまう。聞けば、この先の村で宗教対立による暴動が発生し、ヒンドゥーがムスリムを、ムスリムがヒンドゥーを殺し合っているため、戒厳令が敷かれたのだと言う。 「近くでムスリム狩りが始まったそうだ。これから先は貴方たちだけで行きなさい。僕は同行できない」 「どう言う事? なんで、そんな…」 「僕の本当の名前はラージャじゃない。本名はジャハンギール…イスラム教徒なんだ」 「!!…」 その夜、バスにヒンドゥー教徒の暴徒たちがやって来て、乗客からイスラム教徒だけを連れ出そうと武器を突きつける…!! ベンガル人女優にして、数々の映画賞を獲得する名監督アパルナ・セーン6本目の監督作となる、英語(+ベンガル語+タミル語+ヒンディー語+ウルドゥー語)映画。 スイスのロカルノ国際映画祭にてプレミア上映されたのを皮切りに、世界中の映画祭で上映。03年にはインド国際女子映画祭にてアパルナ・セーン回顧展とともに上映されたと言う。世界各国で公開された後、英語版、ヒンディー語版、タミル語版、ベンガル語版DVDが発売されている。 日本では、03年のアジア・フォーカス福岡映画祭にて、主演女優コーンコナー来日の上で初上映。同年の東京国際映画祭でも上映され、15年には国立民族学博物館の"みんぱく映画会"で、17年にはイスラーム映画祭2でも上映される隠れた人気作(*1)。2024年には、福岡市総合図書館映像ホール シネラでの企画上映アジアの女性映画監督再考インド篇にて上映。 冒頭、9.11を前後して世界中で巻き起こるテロと戦争の惨禍の新聞記事を描写して、その縮図のような多宗教多民族多言語国家であるインド社会の混乱を、同じバスに乗り合わせたさまざまな人々の様子にシンクロさせて見せていく劇進行が軽快で、自然にかつ緻密なテーマ性の構築によって物語が転がっていくさまは素晴らしい。 乗客たちが語り合う英語、ベンガル語、ヒンディー語、タミル語、ウルドゥー語などの言語を通して、それぞれの登場人物の背景を匂わせていく人物描写も秀逸。 その上で、伝統を重んじる保守層(*2)と、伝統を気にしない欧米風な現代っ子たちの対比。学生たちの喧噪と新婚夫婦、母子、老夫婦の様子に見える人生の機微。暴徒の脅迫によって露呈する宗教的価値観や、それぞれの生活文化の違いを乗り越えながら共生していく方法(*3)と言った、普段は見えないそれぞれの価値観を、映画はその時々にシンクロさせたり対比させたりして表現していく。 状況の変化とともに変わり続ける社会の中で、同じ宗教どうし、同じ言語どうし、同じ民族どうしと言う「自分と同じだから信頼できる」関係、「自分と違うから信頼できない」関係を作り上げていくそれが、時に生死を分ける境界になり、時に刹那的関係の断絶を作るさまを見せつける。 昨日の価値観が今日そのまま通じる保証もない世の中にあって、いつ自分が標的にされる側になるかもわからない恐怖感が、宗教間対立と言う漠然とした概念を、すぐさま卑近な日常感覚に落とし込んでくれる凄まじさがトンデもない(*4)。 本名を隠すラージャや、異教徒や異カーストとの接触を嫌がるミナクシの生活感覚が、緊急事態の中でその存在意義を問われ変化して行く様は、状況を切り抜けていく人の生きる力の現れであるとともに、暴力と差別が横行する現実を前にした個人の抵抗するさまでもあろうか。 映画冒頭とラストに見える、1つのペットボトルから水を飲みあう仕草の繰り返しに現される、2人の距離感や価値観の変化が、重いテーマ以上の美しさでせまるシークエンスの素晴らしさで、もう! 主役ミナクシ・アイヤルを演じたコーンコナー・セーン・シャルマーは、1979年西ベンガル州コルカタ(*5)生まれ。母親は、本作監督のアパルナ・セーン。父親はジャーナリスト兼作家のムクル・シャルマーになる(*6)。 83年のアパルナ・セーン主演ベンガル語映画「Indira(インディラ)」で子役デビューした後、01年の「Ek Je Aachhe Kanya(ある少女)」で本格的に主演デビュー。続く02年には、英語映画デビューとなる本作とともに、母アパルナと一緒にベンガル語映画「Titli(蝶)」で共演し、こちらでも大きな評判を勝ち取る。05年には「Page 3(ページ3)」でヒンディー語映画デビューして、以降、この3言語の映画界で活躍中。本作でナショナル・フィルム・アワードの主演女優賞を獲得したのを皮切りに、数々の映画賞も受賞している。 06年に短編映画「Naamkoron」で監督&脚本デビュー。09年、舞台演劇「The Blue Mug」に出演して国内外で評判を呼び、10年には男優ランヴィール・ショーレイと結婚。翌11年に息子を出産している(後、15年に両者は離婚するが、子供の親権は共有したままだそう)。15年には長編映画監督デビュー作「A Death In The Gunj」も公開されている。 主演作2本目のコーンコナーの若々しさもお美しいながら、赤ん坊を抱えて命の危険をかいくぐる母親のかわいさ、強さ、頑さ、可憐さが十二分に発揮され素晴らしい。実の母親アパルナ・セーン監督作故の息のピッタリさなのかとも思いたいけど、タミル語しゃべらせたりヒロインながら新米母の役をやらせたりと、わりと突き放したような客観的な演出で撮られている中で、名優ラフール・ボースとタメをはるコーンコナーの演技力の冴えも注目ポイント。 困難の中で、たがいに和解し理解し合い、協調していくラージャとミナクシの刹那的ロマンスも、幻想的であり、テーマとの協調具合とあいまって人生へのアイロニックな美しさを生み出してくれる。 ラストの閉め方だけでも、主役2人の決着のつけ方、"ミナクシ"と言う名前に関する言及や、彼女の夫がラージャと何度も握手してくる描写、エンディングテーマにかかる、ラージャがファインダー越しに見るミナクシの顔が繰り返されるたびにおぼろげになっていく描写などなどに畳み込まれるそれぞれの人の思いや記憶の有り様に、現在もなお混乱の歯車が止まらない世の中や人生への、ある種の諦観や希望と言ったさまざまな思いがこめられているような、深い、詩的な1本。
受賞歴
「ミスター&ミセス・アイヤル」を一言で斬る! ・宗教や民族対立を避けて平和にやっていくためにも、まずはバスで泣いてる赤ん坊をみんなであやして笑顔にする所から始めようかネ!
2017.3.10. |
*1 隠れなくていいから、もっと大々的にお披露目させてあげて! *2 ブラーミン家系のミナクシや、イスラム教徒の老夫婦など。 *3 名前や服装を変える、お互いの生活習俗を尊重しあう…または拒絶し遠ざける…など。 *4 その意味では、あのユダヤ教徒を安易に責められる人がいるだろうか。あるいは、標的にされて連れ去られる老夫婦の毅然とした態度にこめられた覚悟、心情はいかばかりであっただろうか。連れ去られようとする瞬間に「連れて行かないで!」と抵抗する少女クシュブー…ペルシャ語名の女の子…の心情もまた…! *5 英語名ではカルカッタ。 *6 ただし、両者は後に離婚している。 |