インド映画夜話

Mahal 1949年 148分(165分とも)
主演 アショク・クマール(製作も兼任) & マドゥバーラー
監督/脚本 カマール・アムローヒー
"戻ったのね。…わかってたわ。貴方は戻ってくるって"



*私の見たバージョンでは、蛇がコウモリを捕食するシーンはなかったな…。


 ウッタル・プラデーシュ州イラーハーバード近郊のジャムナー河の岸辺に、"サンガム・バヴァン"と呼ばれる屋敷があった。
 嵐の夜、屋敷を買い付けた男ハリ・シャンカルがカーンプルからやって来ると、迎えに出た庭師は彼を屋内に招き入れながら、昔この屋敷で起こった悲劇を語る…

 30年前、とある男がこの屋敷を建設し、恋人カーミニーを住まわせていた。
 男は夜に彼女の元を訪れ、朝と共に屋敷を去る。どんな天気の時も必ず男はカーミニーの元に帰って来たが、ある嵐の晩、乗っていた船が風にあおられて河に沈み、そのまま男は水底へと消えた…「心配しないで。僕は必ず戻ってくる」と言い残して…。それからカーミニーは、男の遺体を探しに増水したジャムナー河へ出かけていき、彼女もまた帰らぬ人に…。
 その以来、「女の泣き声が聞こえる」などと悪い噂が立ちはじめて屋敷に近づく者はいなくなった。シャンカルが、恋人たちの死以来始めて屋敷に入った客になるのだと言う。

 庭師の話を一笑に付して寝室に向かうシャンカルの背後で、突如壁掛けの額縁が落下。振り返ったシャンカルの目には、思いもよらぬものが映る……落下したのは、前の持ち主だったと言う名も知られぬ男の肖像画。その肖像は、シャンカルと瓜二つの姿をしていた…!!
 驚くシャンカルの耳に、どこからか女の歌声が響いてくる…


挿入歌 Chun Chun Gunguruva Baje Jhumba (聞いて下さい。愛する人よ)

*幽霊屋敷に住み続けようとするシャンカルの命を心配した友人スリナートは、知り合いの芸妓をシャンカルに目合わせ「シャンカルを屋敷から誘い出して、あそこに帰らないようにすれば、報酬は望みのまま与える」と約束する…。


 インド映画史上"最初の輪廻ものスリラー映画"にして、ボリウッド初の幽霊もの映画と謳われる、カマール・アムローヒー監督デビュー作となるヒンディー語(*1)+ウルドゥー語(*2)映画の傑作。
 イギリスでは「The Palace」のタイトルで公開。

 この映画の大ヒットによって、主演女優マドゥバーラーと歌手ラータ・マンゲシュカールは一気にスターダムへと登り詰めた他、後世数々の映画に影響を与え続けている映画でもある。04年にはチェコのボリウッド映画祭で上映され、15年にはBFI(英国映画協会)による「10大ロマンス・ホラー映画」の1つに選定されている。
 同名映画に、1969年のデーヴ・アーナンド主演版と、89年のスレーシュ・オベローイ主演版があるけども、まったくの別物(たぶん)。

 それなりに台詞は多いものの、他のインド映画のような饒舌さを感じさせない、寡黙で、それ故にすれ違う人の思いの連鎖と狂気を、ゴシックサスペンスな幽霊屋敷を舞台にして描いていく美しき一本。
 巨大な邸宅セットの中で、緻密に計算された画面レイアウトで撮影される静かでゆったりとしたシーンの数々は、まさに職人芸。本作公開後、「映画と言うよりも、セルロイドの交響詩である」と評されたカマール監督の徹底した孤高の演出術の素晴らしさたるや!!
 過去の悲恋物語を伝える大邸宅にて、自分の知らない前世と思われる人物の影に悩まされ、狂気に取り憑かれていく男の悲哀、その男を自分の方へ振り向かせようとする女性たちを襲う不条理、良かれと思って男を助けにいく親友を襲う運命の皮肉、幽霊ものやサイコホラーのように語られる物語は、次第に狂気の愛の達成を描いていき、その愛すらも人の生死や世代を超えて何度も生まれ変わる、別の形での業の輪廻となっていくさまをも描いていく。白黒画面が見せる上品さとも相まって、まさに"古き良き映画"を体現する一本である。

 主役兼製作を務めたのは、1911年英領インドのベンガル州バーガルプル(*3)に生まれたアショク・クマール(生誕名クムドラール・クンジラール・ガングリー)。弁護士の家に生まれ、弟には映画俳優アヌープ・クマール(*4)、歌手兼俳優兼映画監督のキショーレ・クマール(*5)がいる。妹サティ・デヴィが嫁いだ映画プロデューサー サシャダール・ムケルジーを介して、映画一族であるムケルジー家とも親戚関係。
 元々はカルカッタ(現コルカタ)で弁護士になる勉強をしていたものの、映画への興味から義弟サシャダール・ムケルジーが勤める当時最大の映画会社ボンベイ・トーキーズに制作助手として就職。製作参加していた「Jeevan Naiya」の撮影中、主演男優ナジムール・ハッサンと主演女優デーヴィカー・ラーニー(*6)が突如駆落ち、後にデーヴィカーだけが戻ってきてハッサンを解雇する事件が起こると、いなくなった主演男優の代理として白羽の矢を立てられ(*7)、しぶしぶ"アショク・クマール"の名前で主演デビューする。この映画が封切られる36年には、同じデーヴィカーと主演した2本「Achhut Kanya(不可触民の娘)」「Janmabhoomi(生まれ故郷)」も公開され、前者が記録的ヒットを飛ばして一躍映画スターに躍り出る。
 当初はデーヴィカー・ラーニーの引き立て役扱いが強かったものの、41年の「Jhoola」など女優リーラ・チトニスと共演した映画が徐々に人気を獲得して役者として独り立ち。43年の「Kismet(運命)」でアンチヒーローを演じて大ヒットさせ、"ヒンディー映画界初のスーパースター"と称された(*8)。数々の映画の主演をこなす中でプロデューサーとしても活躍し、後進のデーヴ・アーナンドやプラン、ラージ・カプール、マドゥバーラーなどスター俳優や著名スタッフを世に送り出している。
 2001年、ムンバイの自宅にて心臓麻痺のため物故。享年90歳。

 ヒロインとなる謎の女性カーミニーを演じたのは、1933年英領インドのデリーに生まれたマドゥバーラー(生誕名ムムターズ・ジェーハン・デーラヴィ)。"悲劇の美女"とか"インド映画界のヴィーナス"と称される、40〜60年代に活躍したスター女優。父親はユースフザーイ(*9)系パシュトーン人で、パシュトー語を母語とする。
 幼少期に父親の失業によってムンバイに移住し、一家の生活困窮を助けるために9才で子役として働き始め、42年の「Basant」で"ベイビー・ムムターズ"のクレジットで映画デビュー。その後も子役を順調にこなしていくうち、女優デーヴィカー・ラーニーに注目されて"マドゥバーラー(*10)"の芸名を与えられ、47年の「Neel Kamal」で若干14歳で"女優マドゥバーラー"として主演デビューする。49年の本作の大ヒットで一躍スター女優の仲間入りを果たし、大ヒット作を連発。その名声は、遠くハリウッドまで広がりフランク・キャプラが彼女をハリウッドに招きたいと言って来たと言うほど(*11)。
 54年に心室中隔欠損を発症するも、長年公表しないまま映画撮影に参加。彼女の代表作となる「Mughal-e-Azam(偉大なるムガル帝国)」でその演技は大絶賛を浴びるも、その間にも身体的負担の大きい演技に症状の悪化を招き、長い闘病生活と女優業のかけもちの末、1969年に病死。直前まで、彼女の監督デビュー作「Farz aur Ishq」の企画を進めていたと言う。以降、彼女の誕生日には決まって特集記事や特集番組が作られ、親族による式典が行われている。

 文芸映画のような静かな画面と、沈黙の多いシークエンスの数々(*12)、屋敷内外でシャンカルの狂気を体現するように聞こえてくる時計の振り子の音、黒猫やコウモリと言った動物たちに仮託されるイメージ、ラストのどんでん返しによって現れる、純粋かつ愚鈍なる人生の不条理具合。
 脚本やスクリプトの仕事をこなして来たカマール監督の、新境地を開拓しようとする野心と美学のつまった、詩的な芸術作品であると同時に、巧みな構成で今なお楽しませてくれる娯楽作品でもある一本。

挿入歌 Dance

*父の計らいでランジャナー・デヴィと結婚したシャンカルが、妻の勧めで山間の避暑地に登山している時に出会った、山岳部族民の祈祷儀式の様子。



「Mahal」を一言で斬る!
・嵐の迫る中、時計台の時計の長針を調節する老人…と言う絵面は『バック・トゥ・ザ・フーチャー』の先取りである…わきゃあない。うん。

2018.9.1.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。この言語の娯楽映画界を、俗にボリウッドと言う。
*2 パキスタンの国語で、ジャンムー・カシミール州の公用語。主にイスラム教徒の間で使用される言語。
*3 現ビハール州所属。
*4 生誕名カルヤン・クマール・ガングリー。
*5 生誕名アッバス・クマール・ガングリー。
*6 ボンベイ・トーキー社長ヒマンシュ・ラーイの妻。
*7 監督曰く「若い男だったら顔は問題じゃないと思ってた」とか。
*8 この映画は、初めて1カロール(=1000万ルピー)越えの興行成績を上げたインド映画としても知られる。
*9 イスラエル12支族の1つ、ヨセフ族後継を称するパキスタン〜アフガニスタン東部地域から派生したコミュニティ。
*10 蜂蜜のような美女の意。
*11 結局、父親の反対にあい米国行きを断ったそう。また、共演の多かったディリップ・クマールとの婚約も、父親の反対のために破談となり、2人の関係に亀裂が入ってしまったと言う。
*12 それがために、眠気を誘われてしまう…。