インド映画夜話

マニカルニカ ジャーンシーの女王 (Manikarnika: The Queen of Jhansi) 2019年 148分
主演 カンガナー・ラーナーウト
監督 カンガナー・ラーナーウト & ラーダ・クリシュナ・ジャガルラムディ
"気高き騎乗の王妃、その人生とはー"




 19世紀前半の北インド。
 ヴァラナシにて、ブラフマン(=バラモン)の父親モロパント・ターンベーとマラータ王国宰相バージー・ラーオ2世に育てられた少女マニカルニカは、聡明で武勇にも優れ「この子は、短命か長命かは判断できないが、歴史に名を残す偉大な人となる」との予言を受けていた。その類まれな素質を見込まれてジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオのもとに嫁いだマニカルニカは、その日から名前を「ラクシュミー」と改める。

 しかし、時は東インド会社によるインド各地の搾取と併合が繰り返される英国専制が始まっていた時代。
 その誇りをもって英国人に従うことを良しとしないラクシュミー女王は、対等な立場で東インド会社と渡り合い、法の名の下に英国専制を挫き、人々から"ラクシュミー・バーイー"と慕われる名声を勝ち得て行く。だが、国中が望んでいた次期国王となる赤ん坊が生後すぐに夭折。王位継承権の争いで揺れる藩王国にあって国王もすぐ病没すると、ラクシュミー女王はそれまでの慣例に逆らい「この命尽きるまで、国の誇りを守る」事を宣言。国王の遺言である養子ダーモーダル・ラーオの生存を死守し、ジャーンシー併合のために進軍してくる東インド会社に対抗するため、女王の名の下に挙兵する事を決意する…!!


プロモ映像 Shiv Tandav (シヴァ神楽)


 19世紀中頃に勃発する第1時インド独立戦争(別名インド大反乱)の渦中に、独立を掲げて挙兵した実在の女王ラクシュミー・バーイー(1828年頃生[諸説あり]〜1858年没)の人生を描く、歴史絵巻ヒンディー語(*1)映画。
 タイトルは、"ジャーンシーの女王"と称されるラクシュミー・バーイーの生誕名。「宝玉の耳環」の意とか(*2)。
 同じラクシュミー・バーイーの生涯を描いた映画として、1953年の白黒ヒンディー語映画「Jhansi Ki Rani(ジャーンシーの女王)」もある他、TVドラマシリーズも何作かあるそう。

 ヒンディー語版の他、タミル語(*3)吹替版とテルグ語(*4)吹替版も同時公開。
 国外では、インドより1日早くクウェートで、インドと同日にオーストラリア、カナダ、デンマーク、英国、インドネシア、アイルランド、マレーシア、オランダ、ノルウェー、ニュージーランド、米国などでも公開。日本では、2020年に2週間限定公開された。2024年には群馬県の高崎電気館の「インド映画特集2024」でも上映。

 まさに歴史大作!!
 インドで知らない人のいない歴史上の偉人として名高い女王ラクシュミー・バーイーを、その誕生から死まで劇的に描く密度は相当に高い。まさに、何度も噛み締めて見たい映画ではある。
 制作中から報道されていた、いろいろな映画撮影時のゴシップ系の話題に「大丈夫かな…?」とは思っていたものの、本編見てるうちはそんなの一切気にならない完成度でしっかりみっちり時代劇してくれているので大満足。
 前半のヴァラナシとジャーンシーでの豪華絢爛の暮らし、中盤以降始まる独立戦争の血で血を洗う戦いと駆け引き、その構成は史実をより扇情的に再構成しているとはいえ、当時のインド人たちの生き様をこれでもかと叩きつけてくるインパクトは相当なもの。実際、そういう生涯を送った実在の女王がいたってんだから、インド凄まじい…と思わずにはいられない迫力であり、散りばめられた数々の映像的・伝統的・歴史的モチーフも細部に渡って抜かりない。

 国を守るための手段が、気づいた時点で戦争以外になくなってしまった状況における「国民を率いる為政者」の説得力ある姿を描くという点において、この映画レベルのことを日本が、アメリカその他の国が映画で表現できるのかと思うと、相当緻密な計算の上でインド国民の愛国心をくすぐるように構成された物語・台詞の数々が孤高なくらい際立って熱い。外国人のこっちまで平服してしまいたくなるラクシュミー・バーイ女王のカリスマ性は、凄まじいものがありまする。
 この点に関しては、53年版「Jhansi Ki Rani」よりも格段に進化した映像を作ってくれている。その分、劇的で扇情的になってるが故なんだろうけど、子供と夫の死について普通の病死として描いていた「Jhansi Ki Rani」に対して、ハッキリと権力闘争における毒殺と断じている今作は、インド映画が好む復讐譚としても物語を煽りまくり、ラクシュミーと旧知の仲だった英国人将校との友情劇とかは一切無視されてしまっている。その一方で、独立に立ち上がるインド人たちと、英国に与してインドを売り払おうとする人々を描き分けながら、まとまろうとしないインドの悲しさ、それを乗り越えようとする人々の意志の崇高さが、後半に何度も何度も畳み掛けてくる必死さは、今のインドもまた同じ願望を掲げたい故であろうかとも思えてくるところもある(*5)。終盤ごろの、平和な頃を回想するインサートカットが、効果的に見てるこちら側の感情をかき乱してくれますことよ。

 まあ、見てる間は「ラストはどこまで見せていくつもりなのかな…」と終わり方をどうしてるのかが気になってしまって、何重もの怒涛の盛り上げが「まだ行くのか」「さらに語るのか」「ここまでやっていいのー!!」って感じにはなっている。ある程度脚色しているにしろ、史実を反映させている分、映画的なラスボスをどうしようか迷ってる感じがしてたのが、うーん…って感じには見えたけど、あのラストの決着を目指した意図的な逆算演出であるなら、それはそれで「ヒンドゥーの神様は凄まじすぎんよーーーー!!!!」

 映画撮影中、ジャーンシーの反逆者となるサダーシヴ役を演じていた映画スター ソヌー・スードが突如降板し(*6)、テルグ語映画「N. T. R.」制作の合間を縫って本作の監督を務めていたラーダ・クリシュナも降板してしまったと報道されているあたり、多少混乱した現場の雰囲気が残ってたり…するのかなあどうかなあ(*7)。
 まあ、裏でどんなことがあったかは計り知れないんだけど、それにしても主役マニカルニカ=ラクシュミー・バーイー演じるカンガナーの迫力、気品、少女期〜敗戦の将となるまでのそれぞれの時代での立ち居振る舞いやオーラの違いの演じ分けなど、本当に凄まじい。これだけでも一見の価値あり。
 英国人に立ち向かうため、サリー姿で颯爽と歩き出す姿は「バーフバリ(Baahubali)」のシヴァガミとタメを張る画力のあるお姿でしたわー。馬に乗って、サリーの布を何メートル後方にはためかしてんのって忍者の特訓みたいな疾走具合が、美しカッコいい。カンガナーすんばらし。

挿入歌 Dankila (幸福と高揚と [喜んで踊りましょう])

*カーストごとに食のタブーが規定されているヒンドゥー社会において、異カーストや異教徒の使う食器や料理を口にするのは社会追放されかねないタブーでもある(*8)。
 しかし、このシーンで王族であるラクシュミー・バーイーはインドの一体化を理想とするがゆえに、庶民の生活を理解する為政者であるがゆえに、あえてこのタブーを無視する理想的為政者の姿として描かれるのである!(*9)



「マニカルニカ」を一言で斬る!
・ヒンドゥー勢力関連の歴史ばかり注目されるインド映画界にあって、それはそれでどんどんやって欲しいんですが、ここでデリー・スルターン朝時代のラズィーヤ・スルターンの再映画化企画とか…出ないかなあやっぱ…。

2020.1.6.

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*2 聖地ヴァラナシの有名な沐浴場由来の名前だそうな。
*3 南インド タミル・ナードゥ州の公用語。
*4 南インド アーンドラ・プラデーシュ州とテランガーナー州の公用語。
*5 良いにつけ悪いにつけ…。
*6 その後をムハンマド・ジィーシャーン・アイユーブがサダーシヴ役を引き受けて全部撮り直したそうで。
*7 監督降板ののち、主役演じるカンガナーが監督に就任して映画が完成。突然の降板劇について、関係者それぞれがいろんなことを言ってますが…さて。

*8 セポイの反乱が起こった原因の1つもこれではないかと言う説がある。
*9 同じように、異教徒間の融和を表すシーンとして「同じペットボトルの水を飲み会う」という印象的なシーンを描いた「ミスター&ミセス・アイヤル(Mr. and Mrs. Iyer)」なんて映画もありましたっけ。