Mrityudand 1997年 151分(139分、161分とも)
主演 シャバーナー・アーズミー & マードゥリー・ディークシト
監督/製作/脚本/台詞/編集 プラカーシュ・ジャー
"貴方は、女の私が傷ついて死を選ぶとでも思ったのかしら"
"こうして無事生きているわ…これからだって!!"
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1996年のビハール州西部ビラスプル。
村の老人たちによる村会は、姦通と魔女疑惑の容疑で22才の寡婦ガンガーとその母を追放刑にする裁定を下した。
母娘は村人に村外まで追われて石を投げられ続けた後、身重のガンガーは村人たちの手で河に投げ込まれて殺される事に。その後、村にやってきた警察と徴税官による関係者への事情聴取が始まるが、主だった村の権力者たちは一様に沈黙し、事件そのものを口にするのも避けようとする…。
それからしばらく後。
父親と2人暮らしだった女性ケトキーは、そんなビラスプルの地主の息子で建築士のヴィナイ・シンの元に嫁いできた。滞りなく行われる結婚式の裏では、土地や女をめぐる村の有力者たちの談合が始まり、密かに人材請負人のティルパト・シン達の意向によってヴィナイ・シン一家の土地が狙われ始める…。
ある日、僧侶になったヴィナイの兄アバイ・シンが寺院内で密かに殺されてしまい、「事故死した」という死亡報告を受けた彼の妻チャンドラヴァティは、ショックで寝込んだまま屋敷の鍵を義妹であるケトキーに預けて部屋に引きこもってしまう。一方、ケトキーとの幸せな新婚生活を楽しむヴィナイは、ティルパトの口利きで新しい工場建設現場を任せられることになって、徐々にティルパト一味に感化されて家を顧みなくなっていき…!!
挿入歌 Keh Do Ek Bar Sajana Itna Kyu Pyar Sajna
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プラカーシュ・ジャー監督の、劇映画としては5本目となるヒンディー語(*1)映画。
娯楽映画と芸術映画の垣根を越えて活躍するプラカーシュ・ジャー監督作でも人気の高い映画で、人によっては主演マードゥリーの最高傑作と評する人もいるとか。
お話は、インド農村部にはびこる家父長制と既得権益によって人々を牛耳る支配層の横暴をこれでもかと描き、その犠牲となり慰み者となっていた女性たちが反乱に立ち上がる瞬間を描いていくリベンジムービーへと流れていく。
冒頭から、真っ赤な夕景に見えるはるかな丘陵線の向こうから逃げてくる母娘の影が、無数の群衆の声に追われ、石を投げられ、一方的な暴力の標的となっていく恐怖を、赤と黒の印象的な色彩で表していく画面の広大さが圧巻。そして、その標的になった女性が、村の権力者たちの陰謀によって陥れられ、権力者たち本人の手を煩わせずに熱狂する村人たちによって殺されていく陰惨さが、ステレオタイプ的であってもインドの現実でもあることを糾弾する内容の強烈さがなんとも。
金とコネを牛耳ることで村人たちの自由意志すら支配する寺院長や人材請負人ティルパト・シンとその仲間たちによって、「民意」なるものすら彼らの思い通りに操作され、かつ村人たちにその自覚も持たせないまま村の財産は搾取され、女性たちも使い捨てされて処刑されていく。自身の生活基盤を人質に取られた時にいかに集団が狂っていくかを描く本作は、「民主主義」そのものが抱える自由とは対局の危うさをハッキリと見せつけ、自活自尊の村にあって見えてくる「自由の不自由さ」は、民主とはなんぞやと問いかけてくるよう。
本作監督を務めるプラカーシュ・ジャーは、1952年ビハール州西チャンパラン県べティアの農場生まれ(*2)。
85年に女優ディープティ・ナヴァルと結婚して(後の02年に離婚)生まれた娘が、映画監督兼歌手のディーシャ・ジャー。姪に映画監督のアランクリター・シュリーワースタウがいる。
デリー大学に進学して物理学の学士号(優等学位)を取得するも、画家を目指してボンベイ(*3)に移住。美大在籍時に偶然映画撮影を見る機会を得たことで、映画に興味を示してプネーのFTII(インド映画&TV研究所)編集コースを受講するも、学生運動の激化でFTIIが運営停止に追い込まれると、ボンベイに戻り独自にドキュメンタリー制作を開始。75年に「Under the Blue」を発表してからドキュメンタリー作家として活躍する。
実際のビハール州の暴動を取材した84年公開のドキュメンタリー「Faces After Storm」は、その政治的内容から4〜5日の間公開禁止措置が取られたとして注目が集まり、ナショナル・フィルムアワード非長編映画注目作品賞を受賞。同年には作詞家兼脚本家グルザールを招いて初の劇映画となるヒンディー語映画「Hip Hip Hurray」を公開させ、オール・インディア映画賞協会の監督賞を獲得する。以降も、ヒンディー語の娯楽映画とドキュメンタリー双方で多数の映画賞を獲得する映画監督兼プロデューサーとして活躍中。
映画製作とは別に、地元ビハール州の地域開発事業に取り組み、NGO団体を通じて数々の施設の建造・運営に参加し、自身でも地域開発会社アヌボーティを設立。選挙活動に異議を唱えるために04年から何度か政党員候補として立候補して選挙戦を演じてもいる(*4)。
当時の"ボリウッドの女王"マードゥリー・ディークシトよりも先にクレジットされるチャンドラヴァティ役のシャバーナー(・カイフィ)・アーズミーは、1950年ハイデラバード州ハイデラバード(*5)のイスラーム教シーア派の家生まれ(*6)。幼少期は"ムンニ"と呼ばれていて、11歳の時に今の名前をもらったとか。
父親は作詞家カイフィ・アーズミー、母親は女優シャウカト・カイフィで、どちらも熱心なインド共産党員。兄(弟?)に撮影監督のババ・アーズミーが、姪(妹の娘)に女優タッブーとファラー・ナーズ姉妹がいる。
共産党活動に尽力する家庭環境に大きな影響を受けて成長し、ムンバイの大学で心理学の修士号を取得。女優ジャヤー・バドゥリ(*7)の演技に魅了されてプネーのFTII演技コースを受講し最高位リストに名を連ねて卒業。いくつかの映画出演契約を交わす中、74年のダッキニー語(*8)映画「Ankur(苗木)」で映画&主演デビューし、ナショナル・フィルムアワード主演女優賞他多数の映画賞を獲得する。同年公開の「Faslah」他2本でヒンディー語映画にもデビューし、娯楽映画と芸術映画の垣根を越えるニューウェーブ俳優として活躍。数々の芸術映画の大家の監督作に出演し、83年から「Arth(わけ)」「Khandhar(破滅)」「Paar(交差点)」と3年連続でナショナル・フィルムアワード主演女優賞を獲得するなど、多数の女優賞を受賞し続けている。
84年に作詞家兼脚本家のジャヴェード・アクタルと結婚し、アクタル=アーズミー映画一族の一員となる(*9)。
映画以外でも、熱心な社会活動家としても有名で、子供支援やエイズ問題への慈善活動や政治運動に参加したり、政治批判のデモや演劇イベントを開催もしている。88年にパドマ・シュリー(*10)が授与され、89年以降にはインドの国家統合評議会員や国家エイズ委員会員に選出。97年には、インド連邦議会の上院議員にも指名され、12年にパドマ・ブーシャン(*11)も授与されている。
物語の大半は、村を牛耳る悪役たちの横暴で占められ、鬱々とした村の暮らしが続く情景の中で、平然と行われる殺人・恐喝・談合・懐柔の空恐ろしさよ。
主人公ケトキーやチャンドラヴァティが動くのは後半以降で、それまでは徹底して父権制を主張する男たちの陰謀によって言論は封殺され、抵抗する手段すら奪われ、ただ身も心も服従しその身体を滅ぼしていくしかない一般人の苦痛を見せ続けていく。
ケトキーの夫ヴィジャイも頼りにならずすぐ懐柔されてしまうし、周りの目を気にするその態度そのものが事態をより悪化させていくことを延々と表現していくシーンのなんとも辛いことよ。そこから、寡婦チャンドラヴァティと彼女の幼馴染らしい労働者男衆代表のランバラン(演じるは名優オーム・プリ!)との慣習を無視する恋愛模様によって、村を支配する形なき「民意」の正体が暴露される展開の小気味よさがスバラシか。
意図的に魔女裁判を起こして「民意」を操る悪役側に対して、1人1人が決死の覚悟と共にそれぞれの形で慣習打破を表明していく姿を丁寧に描く誠実さは、映画的には冗長気味に見えてはしまうものの、その覚悟を見てきた観客だからこそ、ラストに爆発する真の意味での「民意」の怖さに拍手喝采を贈りたくもなりましょうか(*12)。願わくは、全員のより良き暮らしを目指す「民意」の模索がいつまでも続くよう、努力していく一般人でありたいけれども…。
受賞歴
1998 タイ Bangkok Film Ferstival 観客選出アジア映画注目作品賞
1998 伊 Cinema Tout Ecran 批評家選出注目作品賞
1998 Screen Awards 主演女優賞(マードゥリー・ディークシト)・助演女優賞(シャバーナー・アーズミー)・悪役賞(モーハン・ジョーシー)
1998 Zee Cine Awards 監督賞・台本賞(プラカーシュ・ジャー)・再録音賞
1998 Sansui Awards 批評家選出注目作品賞・主演女優賞(マードゥリー・ディークシト)
「Mrityudand」を一言で斬る!
・結婚や妊娠という祝い事が、次なる悲劇の予兆になりかねないインド物語文法の恐ろしさよ….
2023.8.5.
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