No Smoking 2007年 122分(127分とも)
主演 ジョン・エイブラハム
監督/脚本/原案/カメオ出演 アヌラーグ・カシュヤプ
"何を代償に、貴方はタバコやめますか?"
警告:毎日、タバコが原因で1000人もの人々がなくなっています。
喫煙は、命を奪う行為ですー
その時、男は目覚めると見知らぬ雪原の小屋の中にいた。
「貴方、どこにいるの?」…携帯電話から聞こえる妻のヒンディー語の質問と、TVが映すロシア語のニュースは同じことを男に問いかけ、窓から見える雪景色の中で行進するロシア兵たちは彼を監視し、撮影までしてくる。監禁されている上、タバコを求めて外に出ようとするだけで銃撃までされると知って、男は窓を破って雪の丘の上を目指そうとするが、追いかける兵士の銃弾に倒れてしまい、それでもその丘の上の浴槽脇に落ちていたタバコに手を伸ばしていくと……
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「K、何してるの? ドアを開けて!!」
自宅の浴槽で目を覚ましたKは、不思議な夢を反芻しながら、タバコをふかしていた。何度となく妻アンジャリから禁煙を薦められながら、Kは自宅でも職場でもあらゆる所でタバコをふかす重度のタバコ中毒者。家族のために禁煙していると言う友人アッバス・タイヤラワラにも、無理矢理タバコを押し込もうとして喧嘩になる始末。
ついに、自宅から出て行ったアンジャリから電話越しに「禁煙しないなら、実家に戻る」と言われたKは、アッバスはじめ友人たちが「効果抜群だ」と保証する怪しげな禁煙支援活動"プレイヨグシャラ(実験室)”を訪ねてみようと決意する。
アッバスからもらった名刺を頼りに、迷宮のようなスラムを彷徨うKは、すでに彼の名前とIDナンバーを抑えている奇妙な人々に導かれて、謎めいた禁煙活動の指導者シュリー・プラカーシュ・グル・ガンタル・ババ・ベンガリー・シールドワラに引き合わされると、同意書にサインさせられた上で、彼の奇妙な演説を聞かされる羽目に。出入口もわからない"プレイヨグシャラ"から脱出もできないまま、ババは彼に語る…「同意したのなら、もう禁煙の契約は始まっている……外出するのは簡単だが、ルールを破ればその瞬間、君の兄弟や親に罰が下るだろうし、自分の指とさよならした人間もいる。愛する人を死なせたくなければ、ルールに従うしかない…!!」
プロモ映像 Phook De
米国人作家スティーヴン・キングの短編集「深夜勤務(Night Shift)」の1編「禁煙挫折者救済有限会社(Quitters, Inc. *1)」にインスパイアされた、ヒンディー語(*2)映画。
インド映画史上2番目のスティーヴン・キング原作の映画化作(*3)にして、初のヒンディー語映画となった。
2019年の日本の同名映画他、多数の同名映画があるものの全て別物。
全編にわたって、シュールな悪夢的不条理に支配される映像群で作られていて、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、はたまたその全てが主人公の夢でしかないのか、映画という虚構そのものが悪夢の産物ではないかとでも言いたげな退廃的イメージに彩られた1本。
そのため、派手なプロモーションや、タイトルから期待される内容ではなかった事でインド国内では酷評され、大コケになってしまったことから、アヌラーグ・カシュヤプ監督はビジネスとしての映画製作へと自らの作風を転換させることになったと言う(*4)。
ボリウッド史上における「ねじ式」的な立ち位置にある映画ではあろうけど、当時の観客たちがそれを受け入れなかったって事では、後世の引き継がれなかった特異点的な映画でもある…か?
主人公の名前が「K」としか出てこないこと、映画冒頭の夢がラストにも繰り返されること、浴槽や階段といった意味ありげに繰り返されるイメージ群とシークエンス、突如挟まれる吹き出しや映像的残像、奇妙に主人公に関わってくるすれ違う人々、同じ俳優による別役出演(*5)などなど、たしかだと思える現実感を揺さぶるサイコサスペンス的な劇構成の中「タバコを吸うととり返しにつかない不幸に襲われる」契約が、最初から最後まで不穏で他人を弄ぶ都会人たちの闇を表層化していくかのよう。映画見終わってから、冒頭の喫煙に対する警告文(*6)を見返す時に脳裏によぎるイメージが、全く変わってしまう空恐ろしさよ…。
自己中心的で常に周りの人間を威圧する主人公Kの欧米的価値観のカリカチュア的な人間像が、悪夢的情景の歯止めを聞かなくさせていく様も、この手の話の常道演出ではあるけれど、その周りで出てくる出演者たちも何を考えてるかわからない底の見えない不気味さを見せてくれる不穏さも印象的。
特に、プレイヨグシャラの指導者であるババ(*7)演じるパレーシュ・ラーワルなんか、本作の後の「テーブル21番(Table No. 21)」のアブドゥル役にも通じる悪魔的イメージは、劇中一番不穏すぎてインパクト大。アブドゥル役にあったその行動の真意みたいなものも特に用意されるでもなく、主人公の深層心理の断面のような残酷さと享楽さのみが現れる人物像の奇妙さを、身体全体で表現するような存在感ですわ。政治家活動もしているパレーシュ・ラーワルが、こんな「どこまでも信用できない話術で人を陥れる人物」を演じきってしまう皮肉構造を、みんなが楽しんでいるようにも見えるところもまた、シュールさを増大させる所以か。
タバコを吸いたいのに吸えない不条理からの、あえて吸った瞬間に訪れるマジもんの不条理の不条理感を体現する、ランビール・ショーレイ演じるアッバスの神経質さ、落ち着きのなさ、切断された指の行方やその指が復活している不条理感も、映画の「現実感のなさ」を表すようで興味深い。
物事の因果関係を初めから終わりまで描かずにはいられない饒舌なインドの物語価値観にあって、その因果関係も描かず、オカルト的なのかバイオレンス的展開なのかの判別もわからせないまま、現実の現実めいた部分をひっくり返す物語的土台の転換はどこまでも鮮やか。熱狂的ファンは、この映画における何が現実で何が夢なのかを喧々諤々に語り合ってると言うけれど、その不条理を不条理のまま描く前衛芸術のような映像が、娯楽としてインドではまだ受け入れられることがなかった、と言う現実もまた(監督には)悪夢的現象ってやつに見えてしまいかねない入れ子構造にも見えてきてしまう。
たしかに、見る人を選ぶ映画ではあるけれど、数ある悪夢的映像作品の中にあって、インドと言う人口過密社会の織り成す不条理の中に放り込まれる前衛的不条理の不協和音は、外国人が描くインド舞台の不条理劇とはやはりなにかが異なる心理的迷宮を垣間見せてくれますことよ。芸術・デザインを学んでいた自分としては、こう言う「不穏な新機軸」には特に弱くてね…その信用できない映画世界、超トンがりまくってるその姿勢大スキ。うん。語れば語り続けるほど、製作側が想定している迷宮にはまり込んでいくような感覚にハマっていくのは、それ自体不穏な魅力的体験ってやつです、わ、……きっと、ネ……
挿入歌 Jab Bhi Ciggaret
*メインで踊ってるのは、バーのダンサー役でゲスト出演している女優兼モデルのジェシー・ランダワー。
「NS」を一言で斬る!
・常に寄り目演技のランヴィール・ショーレイすごい。どうやってんの?
2024.10.24.
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*1 日本では「トウモロコシ畑の子供たち」に収録。
この短編は、1985年にハリウッドのオムニバス・ホラー映画「キャッツ・アイ(Cat's Eye)」の1篇として映画化もされている。
*2 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある。
*3 1作目は、「ミザリー(Misery)」を翻案した2003年のタミル語映画「Julie Ganapathi」。
*4 逆に、外国では批評家を中心に好評を得て、カルト的人気を持っているそうな。
*5 妻アンジャリと秘書アニーの2役で出演しつつ、その因果関係に特に説明がないアイーシャー・タキア。
*6 だいたい、どのインド映画にも出てくる定型文!
*7 フルネームの「いろんなものをごった煮に集めましたよ感」の信用ならなさったら!
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