Odiyan 2018年 167分
主演 モーハンラール & プラカーシュ・ラージ & マンジュー・ワーリヤル
監督 V・A・シュリクマール・メーノーン
"これが、呪い師の流儀"
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聖地ヴァラナシにやってきた女性が、ガンガー(=ガンジス河)の流れに巻き込まれ、サリーの端を小舟のスクリューに取られて流されてしまった。
その女性を助けた男は、彼女が回復するのを見届けてすぐ立ち去ろうとするが、女性は彼の顔を見て驚き問いかける……「オディヤン…? 貴方は、あのオディヤン・マニキャンなの…?」
昔々のマラバール地方の言い伝えに、新月の闇夜に現れる呪い師がいたと言う。
暗闇の中、他人の服やナイフを使ってその所有者に、あるいは動物に化けて狩りを行い、死体の肉を耳の穴から取り込んで次なる姿の糧とする。人々に恐れられたその存在は、数年前までテンクリシ村にたしかに実在していた。
しかし、もはやそんな伝説を信じる者もいなくなり、テンクリシ村の呪い師も何処かへと姿を消してしまっている。…15年間の沈黙の後、その彼…呪い師オディヤン族のマニキャン…が帰ってくるまでは。
テンクリシ村にマニキャンが帰ってきた事は、すぐに村人の知られる事になって、かつての彼の親友ダモダーラン以外は悪評高いマニキャンを罵るばかり。その罵倒を受けて「呪い合戦」を受けることになってしまった若者ラケーシュは、村の大人たちからかつてのマニキャンの逸話を聞かされて流石に恐ろしくなってくるが、彼の叔父ラヴンニ・ナーイルは、村の女性プラバーに関連した過去の経緯もあって、マニキャンに対抗しようとラケーシュに近づいてくる。夫を失い、息子と暮らすプラバーを見つめるラヴンニの視線とマニキャンの視線が交差する時、三者三様に不穏な空気が流れていく…
「プラバー、君のプラカーシャンが亡くなって、もう随分になるね?」
「亡くなったんじゃないわ…殺されたのよ、ラヴンニ。それは告発されないといけないけれど、今はまだその時ではないわ…」
挿入歌 Muthappante
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タイトルは、マラバール地方の民間伝承に語られる、姿形を変える魔法を使うとして恐れられる存在"オディヤン族"のこと。
劇中の発音的には、「オディヤン」と「オリヤン」の中間音的に聞こえ…る?
本作と同時公開で、タミル語(*1)吹替版、テルグ語(*2)吹替版も公開。
インドより1日前にカナダ、クウェートで公開が始まり、インドと同日公開でアラブ、オーストリア、ベルギー、ドイツ、スペイン、フィンランド、フランス、英国、ジョージア、ハンガリー、アイルランド、イタリア、キルギス、ラトビア、マルタ、オランダ、ニュージーランド、ポーランド、ロシア、シンガポール、ウクライナ、米国でも公開または上映されたよう。
日本でも、2018年にSPACEBOX主催の自主上映で英語字幕上映されている。
民話に語られる原初的な魔法使いの生き残りの男を主人公にして、その男が故郷に帰ってきた1日の村の騒動を中心にしながら、その村の大人たちが語る過去のオディヤン・マニキャンの不可思議な逸話、プラバーとラヴンニと言うオディヤン・マニキャンと大きく関わる三角関係の顛末、滅びていく土俗的な象徴をとしてのオディヤン族の姿を描いていく1本。
その、電気もまともに届かない古代と現代が同居している田舎町のなかで、闇夜にのみ変身の魔法を使うことができる魔法使いオディヤン族の存在。そんな存在を馬鹿にしつつも恐れる村人たちの中に確かに息づく、亜熱帯地方の闇夜の中に潜むなにか…理屈では説明できない原初的感覚を呼び起こさせるような土俗と理性主義、自然と社会、文明と文明以前が同居した感覚を呼び起こそうとでもする現代ファンタジーでもあるか。
ケーララの闇夜の茂みにうごめく何かを恐れる感覚、と言えば同じマラヤーラム語映画の「ジャッリカットゥ (Jallikkattu)」や「魔法使いのおじいさん(Kummatty)」にも通じる自然の繁殖力の旺盛さ、人と森が物理的に近く森の生命力が圧倒的に強い亜熱帯的な住環境が画面に焼き付いているかのような感覚は、やはり新鮮。
劇中では、闇夜ゆえに動物の鳴き真似や牛の被り物、体を覆う黒布と化粧で「それっぽく化ける」のがオディヤンの魔法である事を映像的説明しつつも、マニキャンの魔法はそれにとどまらずに闇夜の中で巨木や藁山にも化け、数々の本物の動物(*3)や他人に変身して村人を翻弄する。ただの人の思い込みを利用した手品でない事をも見せつけて来る。
この辺、闇夜が必須条件ではなかったけれど「魔法使いのおじいさん」を手がけたゴーヴィンダン・アラヴィンダン監督の描くケーララの濃密な森の存在感に通じるものもあるように感じる。「魔法使いのおじいさん」で描かれる、寡黙でありながら虫の声で満たされ、不用意に人を近づけず、黄昏時のような特殊な時間帯にその不条理な力を見せつける森の異様さが、本作では闇夜の森の中で描かれているようにも見え、それに対抗する村人たちが悪役ラヴンニに先導されて、電柱を建てて街灯の灯りによってその自然が持つ人を凌駕する力そのものを消滅させようとする絵面も印象的。
アラヴィンダン監督の頃に比べ、本作はより文明化された人間社会の方に足が向いていて、闇夜の中に潜む力にも一定の(人間側の)理屈が通じるように見えてしまうのも、別の形で印象的ではあり、カジュアルな描き方にも見える。そこにケーララの人間社会の拡大か、あるいは監督自身の資質を見てしまうのは、外国人目線ですかねえ…。
本作で監督デビューしたV・A・シュリクマール・メーノーンは、ケーララ州のマラバール地方パーラッカード県パットハー生まれ。
商学修士号を取得後、広告代理店を設立するも、1年経たずに顧客との法律トラブルに見舞われて巨額な借金を抱えることとなって、その返済に追われることに。その立て直しの中で、宝飾会社カルヤン・ジュエラーズの協力のもと広告界に返り咲き、新たに広告会社"プッシュ・インテグレイテッド・コミュニケーション"を設立。カルヤン・ジュエラーズの広告キャンペーンを指揮して全インド的な名声を勝ち取ることに成功し、数々の映画スターを起用したCMを演出していく。
その後、映画監督兼脚本家M・T・ヴァスデーヴァン・ナーイルと組んで、叙事詩マハーバーラタを基にした小説「Randamoozham」の映画化を進めるも、意見の違いにより途中凍結。裁判によってナーイル監督に脚本を返し、自身は巨額な返済金を支払ったそうな。
そのまま本作の企画を始動させて娯楽映画監督デビューし、記録的大ヒットを達成。大きな話題を呼ぶものの、主演男優モーハンラールを使った広告が誇大広告であるとしてファンの反感を買って様々な妨害行為を受けたり、映画公開当初の評判が悪い事から主演女優マンジュー・ワーリヤルへの誹謗中傷をネット上で展開して、マンジュー側から告訴、最終的に警察に逮捕されたりしている(*4)。
以後、自身の広告会社と映画会社を結びつける新たな映画製作組織”プッシュ・イオン・コンソーシアム”を設立して、映画製作・映画館設立環境拡大事業に従事しているよう。
本作ヒロイン プラバーを演じるマンジュー・ワーリヤルは、1978年タミル・ナードゥ州カンニヤークマリ県ナーガルコーイル生まれ。
両親ともにマラヤーラム語を話すケーララ人で、父親は金融会社の会計士。兄に男優兼映画プロデューサーのマドゥ・ワーリヤルがいる。
父親の昇進でケーララ州カンヌール県に移り、そこの学校に通ってる間にダンスで注目され、ケーララ青少年祭主催のダンスコンテストに出演し続ける。さらにTVドラマ「Moharavam」にも出演して本格的な女優業を始めて、1995年のマラヤーラム語映画「Sakshyam(目撃者)」で映画デビュー。翌96年の「Sallapam」で主演デビューし、同年公開作「Ee Puzhayum Kadannu(この川の向こう側へ)」でケーララ州映画賞主演女優賞など数々の映画賞を獲得(*5)。多数の大ヒット作に出演する人気女優となる。1998年にCDアルバム「Chingapoovu」で2曲を担当して歌手デビューもしていたものの、同年に共演の多かった男優ディリープと結婚した事で、実質3年間続けた女優業を引退する。
その後、主婦業と子育てに専念して表舞台から姿を消すも、2012年のナヴラトリ祭での古典舞踊リサイタルにて、久しぶりに衆目の前に現れ古典舞踊クチプティを披露。翌13年に本作監督のシュリクマール・メーノーンが手がける宝飾会社カルヤン・ジュエラーズのCMで芸能界復帰し、CM・舞台活動を再開。回顧録も出版している。
2014年には「How Old Are You?(何歳になられますか?)」で映画&主演復帰して話題を呼び、この映画でもフィルムフェア・サウス主演主演女優賞を獲得。同年にディリープと離婚している。
以降、90年代より以上の精力的な映画出演&歌手活動が続いていて、その演技幅の広さを高く評されている。2019年には「Asuran(悪魔)」でタミル語映画に、2021年の出演作「Chathur Mukham(第4の力)」でプロデューサー補にそれぞれデビュー。ヒンディー語(*6)映画へのデビューも決定しているとか。
なんと言っても注目は、現代のオディヤン・マニキャンと15年前の青年オディヤン・マニキャンを同じモーハンラールが演じていることでもあり、現代パートに対して過去パートでは18kg減量の上で「Pulimurugan(虎のムルガン)」で見せたワイヤーアクションさながらの大立ち回りをやってのけるエネルギッシュさが凄まじい(*7)。実際、顔の作りも若返ってるように見える映画マジックも凄いし、若いが故にプラバー、ラヴンニとの関係を良好に進展できなかった若気の至り的な演技も様になってるんだから、さすが大御所俳優って感じでもある。
伝説と同じく本作のオディヤン族も低カースト扱いされる異民族であるため、何か村に悪いことが起こると真っ先に疑われ、容疑者よばわりされ、強盗や殺人犯扱いされる劇中のオディヤン族の悲しさにあって、どこまでも純粋であろうとしながら純粋には生きていけない青年マニキャンの心の揺れ、愛する人の気持ちを裏切ってしまった自分への悔恨が見せる、牛の姿をした自分の影に追われる悲しさは、サイコサスペンス的でもあり、変身術で無双する魔法使いが、変身の達人であるが故に「自分」としての核を持ち得ない悲しさを現していく虚しさをも生み出していくところなんかも秀逸。
また、恋敵ラヴンニの持つ我執、欲望に忠実であるが故に打たれ弱いエゴによってマニキャン、プラバー、さらにラヴンニ本人の人生までも狂っていく様も悲しいながら、この映画特有の悲しさ表現の魅力は、突如最後の最後にラストバトルに現れる魔法使い同士の特撮ヒーロー合戦かと言う同士討ちにもあるかもしれない。
ラヴンニを含む一般人にとって闇夜を払う文明の利器の進出が、差別対象である魔法使いたちの滅亡を可能にして、村人たちのほとんどはそれを良しとしていく中、強盗や暗殺業でしか変身術を活用できない古代的な魔法使い部族たちが、雇われて同士討ちさせられるバトルの変幻自在な魅力とそこに同居する悲しさが、土俗と科学の利器が同居する劇中舞台の村のアイデンティティでもあるように見えてくるのは穿ち過ぎか。こういう対立構図の時は、得てして土俗的なもの、古代的なものの滅びの美学に共感させられるのがセオリーながら、社会派な視点も含ませることで…あるいはややカジュアルな田舎観で描かれるが故に…両者どちらにも含まれる人の暮らしの哀しさが等価で迫ってくるようでもある。
暗闇という、視覚以外の感覚が異常に研ぎ澄まされる中で生み出される変身魔法が、芸としてでしか現代人に受け入れられないにも関わらず、やはり得体の知れないなんらかの恐怖と魅力を持って語られるところなんかは、暗闇の中に投影される映画なるものへの諧謔の意味も含んでいたり……しないか。しないわな(いらん深読み)。
挿入歌 Nenjile
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受賞歴
2019 Asianet Film Awards 主演男優賞(モーハンラール)
2019 Kerala State Film awards 吹替声優賞(シャンミ・ティラカン)
2019 KFCA (Kerala Film Critics Association) Awards 主演男優賞(モーハンラール)
2019 Vanitha Film Awards 主演男優賞(モーハンラール)・主演女優賞(マンジュー・ワリヤー)・助演男優賞(シディックィー / 【Aanakkallan】に対しても)・女性プレイバックシンガー賞(シュレーヤー・ゴーシャル)・音楽監督賞(M・ジャヤチャンドラン)・作詞賞(ラフィーク・アーメド)・デュエット歌曲賞(Kondoram / スディープ・クマール & シュレーヤー・ゴーシャル)・女性歌手賞(シュレーヤー・ゴーシャル / Manam Thudukkanu)
「Odiyan」を一言で斬る!
・プラバーの家の入口、人1人が通れるくらいの門に膝丈くらいの柵があるだけだけど、柵がドア代わりであり鍵代わりなのかしらん?(そこを越えても家の玄関まで数mくらいあるけど)
2024.4.27.
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