ピクー (Piku) 2015年 125分 デリーのチトランジャン公園地区(通称C.R.パーク。ベンガル系住民の多い地区)に住む建築家ピクー・バナージの日課は、便秘に悩む偏屈な父親バスコル(70歳)の身の回りの世話。 着替えから食事から薬の指示まで、人の話を聞かない父親のためにピクーは走り回り、毎日口論ばかりで会社には遅刻寸前。そのためいつも猛スピードを要求される通勤タクシーは事故の連続で、運転手や家事代行からの評判は最悪。毎日飽きもせず問題を起こす父親のために、ピクーの私生活はムチャクチャになっていて、恋人との時間も、会社の昼休みも、プライベートの時間すら彼女にとっては父親の介護の時間である。 ある日、コルカタ(西ベンガル州の州都)にある父の邸宅に買い手がついたと聞いたバスコルは、強固に反対。病気で倒れた翌日に「コルカタへ行く」と主張し、なんだかんだでピクーと使用人ブダンの同行も決定する。しかも飛行機も鉄道も嫌いな彼は、最近ピクーが「もう必要ない」と追っ払ったヒマーチャル・タクシー社の車で行くと主張するのだ!! タクシーの運転手全員がボイコットするバナージ家に、しかたなくオーナーのラーナー・チョウドリーが運転手として出向くことになるが、延々と口論の続くバナージ家に、バスコルのトイレ用の椅子の積み込み、バスコルとピクーのこれまた延々と続く変な口論に、ラーナーは驚きっぱなし…。 プロモ映像 Journey Song (旅の歌) ベンガル系のちょっと頑固でちょっと変な、それでいてどこにでもいるような家族が巻き起こすユーモアたっぷりの珍道中を描く、ヒンディー語(*1)+ベンガル語(*2)+英語映画。 日本では、2015年のIFFJ(インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン)にて上映。2017年にはNetflixにて配信。 自分の思ったことを思った通りに進めないと気が済まない父親と、そんな父親に人生の全てを振り回されながら、なんだかんだと一番コミュニケーションできてる娘ピクー。 この2人を中心とした、仲がいいんだか悪いんだかな家族の日常に放り込まれた第3者、ラーナーの右往左往っぷり、切り返しぶり、呆然ぶりを通して、変わらないようで変わっていく、変わっていくようで変わらない人の生き様、同時に、より現実的な面としての老人介護を取巻く家族の様子が描かれていく。 便秘に苦しむバスコルが口にする、延々と続く便秘ネタの話題が映画の最初から最後まで続き、その場違い感、しょーもなさ感、下ネタに潜む人生観が妙なユーモアを生んでいく。 それを正面から受けて立つ娘ピクーの姿は、痛々しくも、家族であるからこその信頼感の現れとも見える。父親の介護に自分の人生全部を持ってかれてる娘は、それを受け入れ、他人には勤まらないだろうことを了解した上で、あまりにもわがままな父親に辟易している。こうした微妙な家族関係に立脚する家族観・人生観は、おそらくは見る人の年代によってずいぶんとイメージが変わるのでは…ないでしょか。できることなら、ワタスもこの映画を親や祖父母世代に見せてやりたい(*3)。 映画は、この少し変で、それでいてどこにでもいそうな家族のやり取りと、それを外の視点で眺めながら巻きこまれていく運転手ラーナーとの丁々発止で進めていく。45分過ぎから始まる車の旅による、デリーからコルカタまでのロードムービーが中心かと思ってたけども、車の旅自体はわりと順調で、そこに起こる出来事も事件と言うほどのものでもない日常の延長上にあることばかり。 もともと無茶な長距離移動を車で行なうことを強行するバシュコルの強引さ、頑固さ、偏屈さそのものが日常になっている家族の様子を「変な親子でしょ。でもこれがうちの家族だし、それが普通だった」と語るピクーがなんとも。 その中で浮かび上がっていくのが、西洋医療に頼るバシュコルに「インド人ならインド式の伝統医療も試さないと」と言うラーナーの主張に見える、日常を変えるちょっとした視線の架け替え、日常の中に潜む新旧インドの姿の数々。 大都市デリーの核家族と都会人たちが集まる一族イベント、亡き妻の贈物や思い出、錠剤と薬草、ヴァラナシの祈りの風景、懐かしき故郷コルカタの変化、変わらぬ大都市の名所旧跡、変わらぬバシュコル名義の邸宅…。生々流転の人生を現すかのような、"古い視点"と"新しい視点"。その対立と融合にこそ、便秘を解消するヒントがあると気づくバスコルの笑顔は美しい。そのバスコルがサイクリングするコルカタの景色の、なんと爽快なことか。 最後のオチも洒落てて楽しいけれど、とにかくこの映画を見ていて思うことは「人間、老後や病気治療を一人でやれると思うな」って事ですわ。 自分の人生を好きに生きたい、と言うのは結構だけど、その最後は間違いなく自分の周りの人間を何人も必ず巻き込んでいくんだ、ってことは肝に命じときたい。家族云々関係なく、介護は、する側とされる側がいて成立すること。される側がなにかを望む時、する側の人生そのものを巻き込んでいること。「もう死にたい」「こんな生活イヤだ」と一言発するだけで、する側にどれほどのダメージを負わせているのかと言うこと。人間、最後にものを言うのは「体力」であること。 よりよく健康に生きるためには、よく食べよく動きよく出すこと。老廃物を排出しても、人間そのものはそうは変わらない(ように見える)。しかし、実の所変わり続ける世の中で「変わらないままでいる」事は結局「変わっていっている」事でもある。ああ人生とは…。 それにしても、強い口調で延々しゃべくり倒すのは、ベンガル人の特徴なのか、インド人全員の特徴なのかが、気になる所…。 プロモ映像 Piku Remix
受賞歴
「ピクー」を一言で斬る! ・余裕で、携帯片手にバトミントンやるディーピカ。さすが元選手!
2016.6.10. |
*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。 *2 西ベンガル州とトリプラ州の公用語。 *3 どーせ、字幕を目で追えない、とか言って見てくれないけど。 |