Raja Harishchandra 1913年 40分サイレント 本編 その昔、高徳の王ハリシュチャンドラは王妃と王子に囲まれ幸せに暮らしていた。 ある日。都の人々と狩りに出かけた王は、森の中で女性の悲鳴のようなものを聞きつける。駆けつけてみれば、大賢人ヴィシュワミトラが女神に供儀を行なってる所に出くわし、これを妨害して大賢人の不興を買ってしまうのだった。 王は、大賢人に敬意を示すため、儀式を妨害した罪滅ぼしに自分の王国を大賢人に与えると約束。その約束通り、大賢人が王宮にやって来ると同時に、王妃と王子を連れ王位を捨て王宮を後にする…。 インド映画史における、初の純国産映画作品(一部異説もあり)。 タイトルは「ハリシュチャンドラ王」。叙事詩マハーバーラタに伝わる人気の高い伝説上の王の物語で、その後も何度も映画化されるほど有名なお話。 2013年5月3日、この映画公開から100年を祝して、インド映画100周年イベントがムンバイで様々に執り行われていたそうな。 英領インド時代、英国映画界や米国映画界の下請けとして映画製作に従事していたインド人たちが、その技術を母国のために使おうと製作した映画である(*1)。 映画史的には、ハリウッドに映画人が集まり始める頃。現在の映画文法の基礎を作ったと言われる、D・W・グリフィスによる米国初の大作映画「國民の創世」公開の2年前にあたる。 本作は、1912年から7ヶ月21日かけて製作され、ボンベイで公開されるや大ヒット。1914年にはロンドンでも上映されたそうな(*2)。 エイゼンシュテインどころかグリフィス以前の映画なんで、カットは全部定点カメラで1つの舞台上を役者が行ったり来たりするだけの画面構成で作られてるんだけど(*3)、初のインド映画にして、起伏に富む屋外ロケで画面の奥行きを有効活用して縦移動や斜め移動をすんなり入れてくるあたりは、外国映画産業の下請け技術とかインド演劇の伝統と言う下地がある故でしょか…ねぇ? 神様への祈祷儀式で、ええじゃないかばりに歌舞集団がパレードするシーンが入ってるのなんか、当時からインド人の生活文化上で歌と踊りは欠かせないものなんだなぁ…と感心してしまいまする。ハレの舞台に白衣裳で踊り騒ぐのは、背景が黒っぽく映るモノクロ画面だと人物が映えてイイ感じだネ。 自分たちのための映画を作ろう…として神話を題材にするのはさすがインド人って所だけど、インド神話を映像化する場合、どうやったって特撮せざるを得ない部分が目一杯あるのが苦労のしどころ…なんだけど、そこはちゃんと計算通りの特撮技術を入れ込んできたりして、わりと楽しんで作ってるなぁ…と微笑ましく思えてしまいますわ。 監督・製作を務めたダーダサーヒブ・パルケー(*4)は、この映画を制作したことで「インド映画の父」と讃えられている人物。 マハラーシュトラ州の学者の家に生まれ芸術を学んだ後、撮影技師として働くもののペストで妻子を失った後に職を転々とする。印刷工をしていた時に、1905年製作のフランス映画「キリストの生涯と受難(The Life of Christ)」に触発されて映画製作に乗り出しす事に(*5)。 本作の成功で本格的な映画スタジオを立ち上げるものの、資金難で1920年に閉鎖。トーキー映画の進出に対応できず、1937年の監督作「Gangavataran (女神ガンガーの降下)」を最後に映画界から退き極貧の中で物故されたと言う。 映画俳優なんていない時代に、家族や友人知人を集めてそれなりに大人数のキャストを動かしているだけでも相当な苦労だと思うけど、そこにインドらしさを出そうと色々試行錯誤しているようなのも興味深いかぎり。当時、女優のなり手がいなかったため、王妃や侍女たちも男性が演じていたそうで(水浴のシーンがあるんですが…)。 ハリシュチャンドラ王を演じたのは、マラーティー語演劇の舞台俳優だったD・D・ダプケ(本名 ダッタトラヤ・ダモダル・ダプケ)。インド映画史上初の主演俳優となった彼は、後に俳優から撮影・監督に転身して、1924年に本作をリメイクしたそうな。 タラマシー王妃を演じたのは、当時レストランでコック兼ウェイターをしていたアンナ・サルンケ(またはアンナサーヒブ・サルケ)と言う"男性"。映画出演してくれる女優が全く見つからないパルケー監督が、女性的な体つきをしているサルンケに声をかけて出演してもらったとか。これが当たり役となって、インド映画最初期の人気映画俳優となる。本作の後1917年に、同じくパルケー監督作「Lanka Dahan(燃えるランカー島)」でラーマ王子と妻シーターの2役を演じ、これまたインド映画初の1人2役を演じた役者として名を残すことになったとか(*6)。 ハリシュチャンドラ王の息子ロータシュ王子を演じたのは、パルケー監督の実の息子バラチャンドラ・D・パルケーだったそうな。 元の話を知らないのがアレだけど、映画自体もハリシュチャンドラのお話が途中からぶった切られて、関係ない別の映画(後日談?)がくっついてる感じ…に見える? 私が見たのは、後に作り直されたバージョンだったりする?(*7) パルケー監督回顧対談(ヒングリッシュ 字幕なし)
2013.6.28. |
*1 時は、インド独立の33年も前。ガンディーのサッティヤーグラハや、全インド自治同盟の設立以前の話。 *2 ちなみに、日本で初めて作られた映画は小西写真店(現コニカミノルタ)の浅野四郎が撮った映写機テストによる短編記録映画で1898年作。翌1899年には、当時世間を騒がせた事件を元にした日本初の劇映画「ピストル強盗清水定吉」が公開。 この「Raja Harishchandra」製作中の1912年には国産活動写真4商社が合併して、日本初の本格的映画会社となる日本活動フィルム株式會社、略称"日活"が誕生している。 *3 一部、クローズアップを使ったカッティングや合成特撮カットあり。 *4 本名 ドゥンディラージ・ゴーヴィンダ・パルケー。"サーヒブ"は"Sir"つまり尊称。 *5 パルケーがこれを見たのは1910年前後あたり…らしい。 *6 この時は、わりと筋肉質になっていて女性役には違和感を伴うものになってたそうだけど…。 *7 本作の後、1917年にパルケー監督自身が再編集した16分のリメイク作「Satyavadi Raja Harishchandra(清廉なるハリシュチャンドラ王)」が作られているそうな。 |