Shri Krishna Leela 1971年 130分(131分とも)
主演 サチン & ヒーナ他
監督/製作/脚本 ホーミー・ワーディア
"愚かなるカンスよ、お前は妹が産む8番目の子によって死を得るだろう"
挿入歌 Chandani Bhari Suhani Raat ([牛飼い娘たちは皆輝いているわ] この輝かしき月夜を待っているのだもの)
その昔、マトゥラー(*1)王国の都は王妹デーヴァキーとヤーダヴァ族の王の息子ヴァスデーヴァの結婚に湧いていた。
デーヴァキーの兄である国王カンス(サンスクリット名カンサ)が、皆に祝福される夫婦を送り出す御者を自ら勤めようとした矢先、天から「愚かなるカンスよ、お前は妹が産む8番目の子によって死を得るであろう」との声が王国中に響く…!!
以降、怒るカンスは2人を幽閉して、デーヴァキーが産む赤子を次々と殺していく。
ついに予言の8番目の子が産まれる日が近い事を警戒するカンスだったが、その夜、ヴィシュヌ神の奇跡を宣言する女神の光によって、城の警備兵全員が眠り込み、嵐の中で牢屋の鍵が外れ、天から「ヴァスデーヴァよ、ヤムナー河を越えてゴークル(*2)村の娘ヤショーダーの産んだ女の赤子とそなたの子を取り替えてくるのだ」との声が夫婦の元に響く。神々の守護の元、ヴァスデーヴァはその託宣の通りに赤ん坊を取り替えてくると、予言の子の誕生を知って殺そうとやって来たカンスの眼の前で赤子が女神に姿を変え、「予言の子は、すでにゴークル村にいる。その子がお前に死を与えるだろう!」と声高らかに宣言するのだった!!
カンスの命令一下、ゴークル一帯の赤子を殺す軍隊が差し向けられる中、カンス配下の羅刹が、導師に化けてゴークル首長ナンダ(ヤショーダーの夫)の家へと向かうものの、家の中でただ1人残されていた予言の赤子は笑いながら羅刹を退け、あらゆる呪いを断ち切り、その怪力と魔術で殺そうと迫る大人たちを難なく退治してしまう。
それからも、クリシュナと名付けられたこのいたずら好きな子供は、村人たちに愛されながら、その都度大人たちに隠れて大いなる奇跡を表し続ける…!!
挿入歌 Aaj Gokul Chhayi Bahar ([今こそ祝いの時] 今やゴークルには幸福があり)
タイトルは、ヒンディー語(*3)で「聖なるクリシュナの物語」。
特撮を用いた神様映画を多く手がけたホーミー・ワーディア監督による、クリシュナ伝承(の子供時代)の映画化作品。
後に、マラヤーラム語(*4)吹替版「Sree Krishnaleela」も公開。
似た名前の、1977年のタミル語映画「Sri Krishna Leela」は、同じクリシュナ神話を題材にした別の映画。
以前に見た、2012年公開のクリシュナ伝説のアニメ映画化作品「Krishna Aur Kans(クリシュナとカンサ)」と同じく、クリシュナ誕生前の因縁譚〜カンサ王との対決を描く映画ながら、アニメ映画が悪魔たちとの対決を主な見せ場にしていたのに対し、こちらは幼少期のクリシュナの友情と悪戯、人妻ラーダとの恋愛を追うことがメインに来ていて、特撮で撮らねばならない悪魔たちの対決は大部分が端折られてしまっている。その分、血なまぐさい要素も最後のカンサ王との対決のみに絞られている感じなので、親子で安心に見れる映画になって……いや、ラーダとの不倫劇を始め、ゴークラの女性全員との同時同夜の恋愛の様子は、親子向けと言っていいのやらどうなのやら…(*5)。
物語の展開要素の全てに因縁を語らずにはいられないインドのストーリーテリングは本作でもしっかり発揮され、殺す必要のなかったデーヴァキーの1〜6番目の子(*6)をなぜ王が殺さねばならなかったのか、にトリックスターの神であるナーラーヤナ(? もしくはそれに扮した人間の導師?)の余計な一言のためだったと語る発想は、この映画独自の脚色なのか、はたまた民話・民間芸能で語られてる物語を取り入れた結果なのか。
そもそものクリシュナ神話自体も、叙事詩「マハーバーラタ」の1登場人物であったクリシュナへの人気の高まり、旧態依然としたバラモン教(=中期ヒンドゥー教)の権力者たちへの不信・反発による庶民側からくる「庶民の救い主」への希求を核として、ありとあらゆる物語の習合によって現在の形に語り継がれることになったものでもあるから、その物語も基本的な型はあってもその展開のさせ方は、実に自由自在でありますわ(*7)。
神話では「青い肌」であると言うクリシュナは、本作では「やや白い肌色」の少年として登場。赤ん坊時、幼児期、少年期とそれぞれの子役が演じてましたけど、まだこの頃はマッチョ的なキャラも出てこない時代もあってか、少年特有の若々しい細身の美しさを描くポーズから意識させる撮り方をしているみたいに見えて、OPに映されるクリシュナイラストの図像をちゃんと劇中でも再現しようとしているかのよう。
そんなクリシュナ(少年期)を演じたのは、1957年ボンベイ州ボンベイ(現マハラーシュトラ州都ムンバイ)に生まれたサチン・ピルガオンカル。
父方の家自体が、ゴアのピラガオンに先祖を持つサラスワト・ブラーミン家系(*8)で、父親は映画プロデューサー兼印刷所経営者でもあったシャラド・ピルガオンカル。
子役として活躍する中で、1962年のマラーティー語(*9)映画「Ha Maaza Marg Eekla (これが私の特別な道)」で映画デビューしてナショナル・フィルムアワード子役賞を獲得。1965年の主演デビュー作「Dak Ghar」からヒンディー語映画界に出演し続け、1982年のマラーティー語映画「Mai Baap」で監督デビューしてから、男優兼監督として主にヒンディー語とマラーティー語映画界で活躍中。1985年にマラーター人女優スプリヤー・サブニスと結婚して、2人の間から女優兼映画監督兼プロデューサーのシュリヤー・ピルガオンカルが誕生。90年代からはTV番組への出演・監督・司会などでも人気を博している。
クリシュナ神話のヒロイン ラーダを演じたヒーナ(・クマーリー)の詳しい情報が出てこないので、撮影当時何才だったのかわからないけど、見た感じ劇中のラーダ始め村の牛飼い娘たちは全員少年クリシュナよりも年上の大人で構成され、ちゃんとラーダが夫と生活している描写も描かれて行く(*10)。
牧畜生活の辛さはあんま描かれていない理想的農村風景が終始描かれるゴークラ村だけど、ラーダが厳しい夫と姑に体罰的な折檻を受けているのを救い出すクリシュナの天然ジゴロぶりを、なんのてらいもなく見せつける(恋人としての)理想的な少年像を体現するクリシュナ像の悩ましさは、「ああ、なんだかんだ言ってインド庶民にも『輝かしき美少年』への憧憬って普遍的にあるのかもネ」とか思ってしまうくらいには悩ましいクリシュナの姿を目一杯描いて行く映画でもある。
歴史上、そんな価値観を認めないバラモンたちが必死にクリシュナ信仰を否定しようとして、結局否定できないまま庶民の求める庶民のためのヒンドゥー教の在り方へ作り直させたクリシュナ信仰が、清濁合わせて皆に愛される破天荒な美少年像、大人たちの権威に真っ向から楯突く反逆者としての男の子像として象徴されるのも頷ける少年クリシュナの愛らしい姿の説得力ですわ。
挿入歌 Manohar Madhur Krishna Leela
「SKL」を一言で斬る!
・少年クリシュナに、何の前触れもなく(…ように見えるけど、ネイティブには説明不要なんかしらん?)「カンハイヤ」と言う愛称で呼び始める両親&友達たち。その由来くらい教えてくれー(由来を検索しても『偉大なるクリシュナを指す男性名』しか説明しないサイトのなんと多いことよ…)。
2024.3.8.
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