インド映画夜話

Sikandar 1941年 146分
主演 ソーラブ・モディ & プリトヴィラージ
監督/製作/原案/主演 ソーラブ・モディ
"どうあろうと、歴史にはただこう記されるだけだ…「アレクサンダーは勝利し、ポロスは許されたのだ」と…"




 時に紀元前327年、ギリシャ征服下のイラン。
 号令一過、都の大通りを覆う兵士たちの合唱に迎えられる賢者アリストゥール(*1)は、ここ数日"ニカトール(勝利王)"とも称せられるアレクサンダーがイラン王女のルクサーナー(*2)に心を奪われていることを憂い、大王に"世界の王"としての態度をハッキリさせるよう促すのだった。

 帰国するアリストゥールに世界の王となる事を約束するアレクサンダーは、ルクサーナーとの再会を誓いつつ、全軍を持ってインド侵攻を開始。勝利に次ぐ勝利によって、ヴァティスタ(現ジェレム渓谷。ギリシャ側の表記ではヒュダスペス河畔)までを支配下に置く事に成功する。
 アレクサンダーこと"ギリシャのシカンダル"の噂はたちまちインドの王たちに広がり、河をはさんで迎え撃つプル王(*3)は、息子たちや隣国の王たちとともにこれを撃退せんと待ち構えていた。
 その頃、密かにアレクサンダーを追ってインド入りしていたルクサーナーは、イラン王家と親交のあるプル王に謁見してインドの兄妹の祭"ラキィの日"を祝い義理の兄妹と認められながら、ギリシャとの全面戦争を避けつつアレクサンダーの役に立とうとする…。

挿入歌 Sawan Ke Din Aaye Re (モンスーンの季節は今 [さあ、私にベールを買ってくださいな])

*アレクサンダー率いるギリシャ軍とともに、密かにインドにやって来たルクサーナーを迎えるインドの祭の様子。モンスーン(つまり雨期)到来を祝い、女性に金銀を贈り、男性にはそのお礼にミサンガを与える、と言うことから、現代インドの夏のお祭りであるラクシャバンダンあたりの時期かしらん?(劇中では「ラキィの日」って言ってたけど)

 タイトルのアルファベット表記は、「Sikander」とも。
 その名は、ウルドゥー語(*4)やヒンディー語(*5)における、古代マケドニアの大王アレクサンドロス3世(*6)のことである。
 その東方遠征によるマケドニア帝国の拡大とヘレニズム文化の隆盛によって、ヨーロッパのみならず旧約聖書、クルアーン(=コーラン)、ペルシャのシャー・ナーメ(=王書)などアジア各地域の文献にも言及されるほどその伝説が広がり、アラビア語で"アル=イスカンダル"と伝えられた名前がインドに伝わり短縮されて"シカンダル"となったもの。

 独立前の英領インド時代に製作された一大歴史大作ウルドゥー語映画にして、モディ監督の9作目の監督作であり、監督の歴史大作3部作の第2作(*7)。
 その愛国主義的な内容のために英領インド軍営下の映画館では上映禁止になったと言うけれど、長い間人気を維持し続けて、61年にはデリーでリバイバル上映されている。
 その人気故に、ペルシャ語吹替版も公開されたとか。

 インド側から見た、B.C.326年のアレクサンドロス大王とポロス王のヒュダスペス河畔の戦いを、大規模な合戦シーンで再現した白黒インド映画時代の傑作。
 インド映画だからそうだろうと思っていたけど、やはりアレクサンダーがインドに来てからの話が中心で、冒頭のイラン(*8)出発、インド諸王たちの対応、ヒュダスペス河畔の戦い、敗北したポロス王との問答、兵士たちの反抗による東方遠征の中止までが描かれていく。
 今見ると、ギリシャ〜ペルシャのアレクサンドロスの業績はほぼ無視され、ロクサネがあっさりポロス王の義妹に認められたり、イランにまでアリストテレスが出向いて来てたりと歴史考証的には無茶な展開をしてくれるものの、より見所となるのは、この映画が47年のインド独立を目前にした41年公開作であると言う点。

 大規模な合戦シーンはあるものの、当時の撮影機材の限界か、ロケ地の都合か、そこまで戦争シーンそのものに特化した映画ではなく、どちらかと言うとアレクサンドロスの若さから来る猪突猛進の姿と、それに翻弄されながら母国インドのために立ち上がり、敗北しながらも誇りを失わないインド人たちの姿と問答のやりとりが中心に来ている台詞劇(*9)。
 インドが西洋勢力に敗れる歴史的事実をなぞりながらも、その中で運命に立ち向かうインド人たちの気概、親子や男女間の愛情、西洋人に屈しない弁論と誇りを見せつける姿は、インドこそがアレクサンダーの東方遠征を止めた原因であることを見せつけ、王侯貴族のみならず、したたかに生きる庶民たちの生活文化こそが西洋人たちにも屈しない文化的抵抗力であることを謳い上げる。そりゃあ、これを見たインド人は喝采を贈るわなあ…と言うくらいインド視点で描かれる歴史劇である。
 まあでも実際、西洋史料の中では英雄であり一時代を築いた偉人として高く評されるアレクサンダーも、インド史料ではほとんど無視されてたりするので、特別この映画がインド気風を鼓舞するものというのでもなく、インド人の感じるアレクサンダーやマケドニア帝国の存在感ってのは、こんなものであると言ういい見本なのかもしれない?

 この映画の監督兼プル王役で出演したのは、1897年グジャラート州のパールシー系(*10)家庭に生まれたソーラブ(・メルワンジー)・モディ(一説にボンベイ生まれとも)。
 学校卒業後にいったん兄のやっていた旅行代理店に就職するも、26才頃にアールヤー・スボーディー劇団を設立して俳優業を初め、シェークスピア演劇やサイレント映画などを製作。好評を得て兄弟でインド中を巡業して回ったと言う。その後、映画の発達によって舞台演劇の人気が下降すると、35年にステージ・フィルム映画会社を設立して、その年に「Khoon Ka Khoon(血によって *11)」を公開して監督デビューする。
 翌36年にはミネルヴァ・ムービートーンを設立して次々に監督作を発表。特に歴史劇に興味を示し、39年の「Pukar」ではセット撮影が普通だった当時で屋外の宮殿ロケを敢行し、その物語の文学性の高さもあいまって大きな評判を勝ち取る事になる。本作は、この成功を受けた次の歴史ものであり、モディ監督の代表作との呼び声高い作品。
 46年に、自身の監督作に多数出演し続けていた女優メヘターブ(*12)と結婚。53年には、そのメヘターブ主演でインド初となるテクニカラー映画「Jhansi Ki Rani(ジャーンシーの独立闘士ラーニー)」を公開。翌54年には「Mirza Ghalib(詩人ミルザー・ガーリブ)」で年間最大ヒットを記録し、60年にはベルリン国際映画祭の審査員に招かれている。69年の「Samay Bada Balwan」を最後に現場から退いたものの、晩年もずっと映画企画を作り続けて、80年にはダーダサーヒブ・パールケー(映画功労)賞を授与されている。1984年、骨髄ガンにより物故。享年86歳。

 対するアレクサンダーことシカンダル王を演じたのは、後のボリウッド最大の映画一族の創始者となるプリトヴィラージ・カプール。1906年パンジャーブ州ライオールプル(*13)生まれ。父親は警察官兼役者だったとか。
 ペシャーワルの大学で法律を学んで弁護士を目指しながら、在学中に演劇で頭角を現す。卒業後も俳優業を続けて舞台に立ち続け、1928年に借金しながらボンベイに上京しインペリアル・フィルム・カンパニーに加入。端役で映画デビューしつつ、29年のサイレント映画「Cinema Girl」で主役デビューする。31年には、インド初のトーキー映画「Alam Ara(世界一の光彩)」に出演し、その後はその巨躯と美声を武器に映画と演劇双方で大活躍していく。
 42年には、自身の移動劇団"プリティヴィ劇団"を設立してインド全国を巡回。16年間に2千回以上の公演を行い大人気を博す(*14)。その中で、息子たちを始め多くの演劇人を排出し、多数の映画人をも育てていくことに。
 その活動を通して、映画人・演劇人を問わず俳優業の人々の生活安定のための制度作りに尽力し、その功績から54年にサンギート・ナタク・アカデミー・フェローシップ(*15)を、69年にはパドマ・プーシャン(*16)を、71年にはダーダサーヒブ・パールケー賞を授与されている。
 1923年の17才の時に結婚したラムサルニー・メヘラーとの間に生まれたラージ・カプール、シャンミー・カプール、シャシ・カプールはそれぞれに映画スターに育っていき、その子供たちがランディール・カプールやリシ・カプールたち。さらにその次の世代がカリシュマ&カリーナ・カプール姉妹や、ランビール・カプールになる。
 1972年にガンのために物故。享年65歳。

 ヒロイン然として登場するルクサーナーが、すぐに空気と化す展開に「むぅ」となってしまうけど、なんやかんやあってラストに突然出てきてアレクサンダーに帰国を促す最終決定を迫るあんたはデウス・エクス・マキナか! って感じ。彼女が、恋人アレクサンダーと義兄プル王の間で苦悩しつつ、全てを観察する両義的存在になる事を象徴するシーンとして、インドの習慣に馴染みつつゾロアスター的祈祷をしているシーンや、冒頭アレクサンダーに"ラクスニー"とギリシャ名(? 発音的には英語か?)と呼ばれているシーンが出てくる点は「なるほどぅ」って思えはするけれど(*17)。
 そういえば、インド視点なら絶対入るだろうと思ってた史実エピソード、アレクサンダーとインドの賢者との問答が最後まで映画に出てこなかったのは意外。

 面白いのは、若さ故に猪突猛進するアレクサンダーとギリシャ軍の進攻具合が、必ず画面左(下手側)〜画面右(上手側)ヘの運動として描かれて、対するプル王が常に画面右(上手側)〜画面左(下手側)への舞台演劇的基本運動で表現されているのもミソ。
 映像表現として、下手〜上手への逆流を見せるアレクサンダーの破竹の勢いと、それをさまざまなしがらみから基本運動のままに受け流すしかないインド軍側の苦悩が表現されている、と見るのは深読みか。ラストシーンの帰国するギリシャ軍とそれを見送るプル王たちもまた、この逆流運動のギリシャと常道運動のインドと言う視点を留めて描かれるのは、劇中のインド礼参に対する一種の戒めと言う向きもあるかも…しれなくもないかも(弱気)。

挿入歌 Aayi Aayi Sajanva Ajab Ratiya (今宵は輝かしい夜ですね、愛する人よ)

*ヒュダスペス河畔の戦いも終わり、その誇り高さ故にプル王はインドの王に復位を許され王宮は王の復活を祝う。同じ頃、農村部では戦争から男たちが帰ってきたことを喜び、同じように祝賀の歌が歌われる…。


「Sikandar」を一言で斬る!
・ヒュダスペス河畔の戦いの開始を待つ戦象の列の圧巻さよ。その緊迫した空気を無視して鼻で巧みに雑草を食べる象さんの可愛さよw

2017.8.11.

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*1 アリストテレスのペルシャ語読み。アレクサンドロス大王(劇中のアレクサンダー)の教師をしていた"万学の祖"。
 史実ではB.C.384年ギリシャのトラキア地方に生まれ、アテナイのアカデメイアにてプラトンに学ぶ。プラトンの死後各地に転居し、マケドニア王フィリッポス2世の招聘に応じてミエザの学園を設立してアレクサンドロスはじめ後のマケドニア重臣となる者たちの教師となり、B.C.335年にアテナイ郊外に移ってリュケイオン学園を設立。後に逍遥学派(またはペリパトス学派)と呼ばれる学問グループを形成させるが、アレクサンドロスの死後に再びアテナイを離れて母方の故郷エウボイア島に逃れ、B.C.322年にエウボイア島カルキスにて病死(一説に自殺)する。

*2 一般的カナ表記ではロクサネ。史実ではバクトリア(現イラン北東部〜アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの一部を含む地域)王女。
 詳細不明ながらB.C.343年以前の生まれと言われ、アレクサンドロスのペルシャ征服の後に16歳で彼と結婚しインド遠征に同行。バビロニアでのアレクサンドロス病死後に彼との子供アレクサンドロス4世を出産。マケドニア王位をめぐるディアドコイ戦争の中、正当な王位継承者を主張して他の王妃を殺害してギリシャの義母オリュンピアスの保護下に入るも、B.C.310年頃、カッサンドロス(マケドニアの重臣。ディアドコイ戦争で王統全てを根絶やしにしてアンティパロス朝マケドニアの初代王となる人物)に母子ともども処刑される。

*3 ギリシャ側表記ではポロス。史学的には詳細不明な点が多いものの、東部パンジャーブのパウラヴァ族首長との説が有力視される。






*4 ジャンムー・カシミール州の公用語でパキスタンの国語。主にイスラム教徒の間で使われる言語。
*5 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*6 劇中の英語発音では"アレクサンダー"。アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス=王。B.C.356生〜B.C.323没。在位B.C.336〜B.C.323。
*7 第1作が39年公開作「Pukar」、第3作目が43年公開作「Prithvi Vallabh」。
*8 マケドニア帝国下のペルシャの…どこなんだろう?
*9 もちろん、合戦シーンはわりと大規模に、やりたいことをドカドカやってくれてるけども。
*10 イラン系ゾロアスター教徒。
*11 ウルドゥー語映画史上初のハムレットの翻案映画。
*12 本名ナジュマー・カーン。
*13 現パキスタンのパンジャーブ州ファイサラーバード。
*14 インドの独立運動にも刺激を与えたとか。
*15 インド国内の芸術奨励賞。
*16 一般国民に授与される3番目に権威ある国家栄典。
*17 効果的かどうかは、まあ、見る人によるだろうけど。