インド映画夜話

あなたの名前を呼べたなら (Sir または Is Love Enough? SIR) 2018年 99分
主演 ティロッタマー・ショーム & ヴィヴェーク・ゴーンバル
監督/脚本/製作 ロヘナ・ゲラ
"近くて遠い二人の世界が交差した時ー"




 帰省中に急に雇用主に呼び戻された家政婦ラトナは、新婦の浮気発覚で結婚式をキャンセルしてきた"旦那様"アシュヴィンのために、その日からすぐ住み込みの家政婦業に戻っていた。

 新婚夫婦の世話係として雇われたはずのラトナだったが、いまや傷心の旦那様一人を相手に高級マンションの同じ部屋で生活する日々が続く。
 彼女にしても、生活費免除で実家への仕送りも出来るこの仕事をやめるわけにはいかない。妹の卒業までの学費を捻出し、裁縫を学んで自立したいと言う夢を追うラトナは、米国で作家になると言う夢を諦め結婚も挫折した旦那様を元気づけるため、自分が未亡人である事・田舎で未亡人が生きていく術はないために都会に出てきた事・人生は常にやり直せる事を思い切って話して聞かせる。
 これをきっかけに、今までろくに日常会話を交わすこともなかった2人はお互いに歩み寄り思いを交わし始めるが、双方の立場・生活の違いが改めて2人の壁となって現れて…




 印米仏を拠点に、映画・TVドラマ制作や社会福祉活動などで活躍しているロヘナ・ゲラの、長編映画監督デビュー作となる印仏合作映画。
 1993年の同名ヒンディー語映画(*1)とは別物。

 カンヌ国際映画祭で上映されたのを皮切りに世界中の映画祭で上映された他、フランス語版「Monsieur(旦那様)」、ドイツ語版「Die Schneiderin der Tra¨ume(夢の仕立て屋)」、ハンガリー語版「Tu¨, ce´rna, szerelem(針、糸、愛)」、ヘブライ語版「Adoni」、イタリア語版「Sir - Cenerentola a Mumbai(ムンバイのシンデレラ)」、スペイン語版「Senor(旦那様)」他で一般公開されている。
 2019年夏に日本でも一般公開。この時点ではインド本国ではまだ未公開だったものの、翌2020年に「Is Love Enough? SIR」のタイトルで一般公開。

 ほとんどがムンバイの高級マンションの一室で行われる室内劇を中心に、指示される側の家政婦と指示する側の雇用主と言う「同じ室内に居ながらにして、衣食住全てが異なる両者」の歩み寄りに見えてくる、様々な社会の有りようを静かに美しく見つめた佳作。
 劇中なんども繰り返される、1枚の壁越しに全く異なる2人の生活スタイルと、そこに現れる両者の人生観・未来への展望の差が、劇の進行とともにインド社会の有り様をもあっけらかんと見せつけてくる。そのカメラの横パン運動の客観性もあいまって、なんとも詩的な映画空間は「サマーウォーズ」や「おおかみこどもの雨と雪」あたりの細田守映画にも通じる美しさでありますことよ。

 アメリカ帰りのアシュヴィンはテーブルに椅子の生活、食事はナイフとフォーク、ラフな服装やレトルト食に慣れているのに対し、ラトナは床に直に座って手づかみのインド式食事に「分をわきまえる」インド式礼節を行動規範にしている。同じヒンディー語を話していても、かたやアメリカ英語との併用、かたやマラーティー語(*2)を母語とした上でのヒンディー語での会話と言う生活文化の差異。
 鮮やかな布地を巧みに合わせたラトナのサリーの着こなしも注目どころであると同時に、変わろうと前進するラトナの心意気を表現するそのファッションは、しかし田舎への帰省中は「未亡人」としての慣習から否定される。ラトナの中に沸々と湧き上がっているファッションへの思いが、日々彼女が身につけるサリーの組み合わせ、着こなし方に現れているだけに、喜ぶべき家族との再会の場での「未亡人」としての自身のありようが余計に無常感を誘う。
 そんなラトナがムンバイへと戻るバスの中でアクセサリーを取り出して脱皮するかのように1つの自由を手に入れるシーンは爽快ながら、その先に待っている「家政婦」としてアシュヴィンたちの世界からは1段低い場所にしかいられない現実もまた、色々と考えてしまう部分ではあるものの、それを「当然のこと」として受け入れながら「人生はいつでもやり直すことができる」とハッキリと口にする彼女の強さもまた、美しい。

 同じ家政婦仲間として助け合うラクシュミと一緒に屋上で一休みするラトナの晴れ晴れとした表情が可愛くもあり切なくもありに見えるシーンも秀逸だけど、後半重要モチーフとなるこの屋上から見たムンバイの街の広がりという、セレブたちを一足飛びに飛び越えた天上からの視点とも思えるラトナの見る世界が、2人の関係の微妙な距離感に効果的なスパイスとして機能している演出もニクい。
 であるからこそ、ラストのラスト、タイトルを効果的に見せつけるあのシーンが「天上からの視点を匂わせる屋上」を舞台にしているという点は、2人のこれからにとって吉兆のようにも見え、不穏なようにも見えてくるアンビバレンツ。ああ、美しくもほろ苦い恋物語が、両者の望む形で終わってくれることを願うばかり…。

監督インタビュー(英語 / 字幕なし)


受賞歴
2018 独 Braunschweig International Film Festival 作品賞
2018 仏 Cabourg Romantic Film Festival パノラマ部門観客賞
2018 仏 Cannes Film Festival GAN基金賞
2018 米 Mill Valley International Film Festival ワールドシネマ部門観客賞
2018 蘭 World Cinema Amsterdam 観客賞


「あなたの名前を呼べたなら」を一言で斬る!
・「ありがとう」を、ヒンディー語の「ダンニャワド」でなく「サンキュー」「タンキュー」で語るのも、2人の間の文化的壁であると同時に、インドが抱える社会的隔たりってやつでしょか(そもそも、インドでは『ありがとう』はあまり多用しない単語って話だけど)

2019.8.9.
2020.3.7.追記

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*1 インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。
*2 西インド マハラーシュトラ州の公用語。