Thamizhan 2002年 162分
主演 ヴィジャイ & プリヤンカ・チョープラ & レーヴァティ
監督/台詞/原案 マジード
"生きる権利を、勝ち取れ"
挿入歌 Hot Party (ホット・パーティー)
その日、若き弁護士C・J・スーリヤは国から表彰され、その功績から新たな400ルピー切手の肖像に選ばれた。彼はいかなる人物だったのか。それは…。
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大学を卒業したばかりの頃のスーリヤは、姉一家と同居しつつ遊んでばかりの毎日。義兄シャクティヴェル(通称シャクティ)のつてで弁護士事務所に就職はできたものの、街で見かけた美女プリヤーに言い寄ったり、意味のない悪戯で周りの大人たちをからかったりする幼さの抜けない彼を心配する姉ジャヤは「親のいない私たちがちゃんとしないと、世間はすぐ悪し様に言うわ。私があなたに望んでいるのはどんなことか、わかってるでしょ?」と諭すのだった。
姉の必死の説得によって、ようやく弁護士という仕事の意味を考え始めたスーリヤは、インドが抱える国債と貧困問題に取り掛かるようになっていくが、同じ頃、農園労働者たちの労働ストの調停をしていた義兄が経営者側の罠にはめられ殺されてしまう…!!
義兄は死に際にスーリヤを呼んで諭すように語る…「いいかスーリヤ、労働者たちはいまだに自身の権利を知らない。法が彼らを守ってくれることを…、人殺しの経営者を凶器でではなく法で裁けることを教えるんだ…」
挿入歌 La La La La Law (ラ・ラ・ラ・ロー)
タイトルは「タミル人」。
タミル語(*1)映画界のスター ヴィジャイ主演映画であり、2000年度ミス・ワールドのプリヤンカの映画デビュー作!(*2) さらに、監督を務めるマジードの監督デビュー作でもある。
インド本国と同日公開で、英国でも公開。
のちに、テルグ語(*3)吹替版「Dammunte Kasko」、09年にはヒンディー語(*4)吹替版「Jeet - Born To Win」も公開している。
なるほど、後々の「テリ(Theri)」とか「マジック(Mersal)」のような世直しヒーロー ヴィジャイの原型はこの辺なのかな…と思える、タミルにはびこる社会問題を徹底的に撲滅して、一般庶民の意識改革を促す青年ヒーロー大活躍映画でありました(*5)。
まあ、その分ヒロインの出番はロマンスシーンのみに限定され、ヒロイン演じるプリヤンカも綺麗どころとしてのみの場面しか用意されてなかったのは、デビュー作故の手探り感でしょか。ミュージカルダンスでは、多少ぎこちない感はあるとはいえヴィジャイに負けず劣らずなキレのいい動きと、さすがスーパーモデルって言う多彩な衣裳の着こなしっぷりを見せつけてくれて眼福ですが。
どっちかと言うと、主人公の姉ジャヤ役で登場するレーヴァティの方がヒロインしてた気がする。弟を思い、夫を思い、娘を思い、自分のできる事を精一杯やって現実と闘う女性ジャヤの姿は、ナーサル演じる夫シャクティ共々力強い印象を残しましたわ。
生活格差や権力の腐敗によって、一般庶民が虐げられ続ける現実を「変える事が出来る」事に気づけない現状を改革しなければ、と言うテーマが生きてくる後半の勢いは熱く、かつ切実。経済界や公務員たちの無軌道ぶりを抑えるシステムが存在しないが故に、社会が一向に改善されない嘆きを、それでも諦観に堕す事なしに具体的な改革案を見せつけて「1人1人が知識を持たなければ」と説得していく丁寧なシークエンスの積み重ねが、暴力否定のガンディーの思想もかくやと現れてくる所なんざ、ニクいほど印象的。
その分、テーマありきでもあるせいか、そこに至る過程やそれぞれの社会悪を裁く法定劇が、丁寧ながらやや冗長な感が出てくるスローテンポ。それぞれの要素をしっかり印象付けようとしたせいなんだろうけど、全部が全部丁寧に描かれてるので、本題に入るまでが長い感じではある。もっとも、最後以外の法定劇なんか、他の娯楽映画とは違ってサクサクしたテンポながら余計なBGMつけた情感に訴える演出が排除されて台詞劇に集中している所なんかは、意図的にテーマを見せつける演出方法だったんだろうけど。
監督を務めた(アブドゥル・)マジードは、1974年タミル・ナードゥ州ティルネルヴェーリ生まれ。
本作はもともと、ティルパティサミー監督によるテルグ語映画リメイク作として主演俳優を集めていたものだったそうだけど、そのティルパトサミーが交通事故死してしまい、リメイク企画自体が凍結(*6)。その後、プロデューサーから主演予定だったヴィジャイ&プリヤンカをそのままに別の映画企画として動かさないかと声をかけられたマジードの監督デビュー作として再始動した企画だったと言う。
本作以後は、タミル語映画界で小規模映画の監督として活躍中。2本目の監督作「Kee Mu」では俳優として出演もしている。
そういや、数は少ないながら出てくるアクションがなんかブルース・リー映画っぽい本作なんですが、意識してやってるのか、予算規模的に工場内でしか撮れないからそれっぽい画面になるのか…どっちなんだろな?
もちろん、ヴィジャイたちインド人がカンフーやってるとかではないんだけど、冒頭に出てくる飲料水工場での喧嘩シーンなんかは「ドラゴン危機一発(唐山大兄)」を意識してないかいって撮り方してるなあ…とか思ってたら、悪役GK初登場シーンなんかは「燃えよドラゴン(ENTER THE DRAGON 龍争虎闘)」見てるしぃ。
と言っても、映画自体はアクションには頼らず常に法定劇で物事が進んで行き、暴力ではなく法治こそが社会を良き方向へ導くと言う姿勢が貫かれているのがなんとも潔い。ある程度(以上に?)理想論的に話が進むわ、悪役たちが勝手に人前に出てきて墓穴を掘るわと御都合主義的な展開もあるんだけど、社会改革という理想について、この頃のヴィジャイ映画はまだ暴力否定でもその理想を描けていたと見るべきか。暴力否定のヒーローを信じられていたと見るべきか…。「ヒンドゥー教徒がギータを知るように、イスラム教徒がコーランを学ぶように、キリスト教徒が聖書を読むように、インド市民なら法治を知っておくべきだ」と画面に向かって叫ぶヴィジャイの思いの強さは、まさに真のヒーローですわ…。
挿入歌 Ullathai Killath
「Thamizhan」を一言で斬る!
・蛍光色粉なんてあるのね…(暗闇で使ったら、一気にサイケ空間に早変わりダヨ!!)
2021.8.20.
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