神代神武東征欠史八代祟神垂仁→景行/成務→
 
古事記・日本書紀の景行・成務の段を、趣味的に年表風にまとめてみました。
記紀の相違に注目!
第12代天皇景行の時代は
・景行の80人の子女(各国造・県主の始祖)誕生
・景行の九州巡行/クマソ征伐
・ヤマトタケル伝説
 1.ヲウスのクマソ征伐伝説
 2.ヤマトタケルの東国平定伝説
 3.白鳥陵の起源説話
 4.ヤマトタケルの子女(うち1人が仲哀天皇)誕生
・景行の東国巡行/膳氏の祖イハカムツカリ伝承
・毛野氏祖先伝説/ヒコサシマ・ミモロワケ伝承
続く第13代天皇成務では
・成務(およびタケウチ宿禰)による国造/県主設置
となります。

景行の時代から"タラシヒコ"や"イラツメ(郎女)"の名が頻出するようになります。
"タラシヒコ"は、7世紀前半に用いられた天皇の称号で、
景行〜神功皇后までの諡号はその頃に定められた可能性が高いと言われます。
その中で、成務の"ワカタラシヒコ"は景行の"オホタラシヒコ"と対応すると考えられ、
景行の分身として加えられた可能性が高く、その実在性は景行に比して薄いと言われます。
一説に、仁徳の母系祖先としての景行の系譜があったものに、
後から「ヤマトタケル伝説」「神功皇后伝説」および父子一系の概念が加わったため
成務と仲哀の両天皇が設定されたとも言われます。
 
景行の伝承の主要部分を占めるヤマトタケル伝説は、
記紀で大きな相違があります。
古事記では、父景行にその勇猛さを恐れられて最前線送りにされたのに対し、
書紀では、天皇の委任を受けた国家的英雄となっています。
東国征討に対しても、書紀では自ら進んで天皇の信頼を受けた将軍とされていますが、
古事記では、クマソ平定後すぐに軍勢も賜らず東国赴任を命じられた事を嘆息したとされています。
特に書紀の記述は、景行によるクマソ征伐・ヤマトタケルの蝦夷(エミシ)征討が主目的で、
古事記の時代よりも、伝説が発展・潤色し蝦夷征討が注目された形となっています。

ちょっと見にくいですが参考までに。

古事記   日本書紀 ()内は「一に云わく〜」で異伝と伝えられている部分


オホタラシヒコ(=景行)、纏向の日代宮(磯城郡)に坐す
景行、針間のイナビ大郎女と結婚 

→クシツヌワケ/オホウス 
/ヲウス(別名ヤマトヲグナ 後のヤマトタケル)/カムクシ誕生 








景行、八尺のイリビメと結婚
→ワカタラシヒコ/五百木のイリヒコ/オシワケ 
/五百木のイリビメ誕生 


景行、妾との間に子をなす
→トヨトワケ/ヌノシロ郎女誕生 
景行、別の妾との間に子をなす
→ヌナキ郎女/カゴヨリヒメ/若木のイリヒコ王 
/吉備のエヒコ王/タカキヒメ/オトヒメ誕生 
景行、日向のミハカシビメと結婚
→トヨクニワケ誕生 
景行、イナビ大郎女の妹イナビ若郎女と結婚
→マワカ王/日子人のオホエ王誕生 






景行、さらに59王、あわせて80王を生む
ワカタラシヒコ/ヤマトタケル/五百木のイリヒコ、太子となる 
その他77王、國造/和気(=別)/稲置/縣主になる 
ワカタラシヒコ、皇位を継ぐ
景行、三野國の美女の評判を聞きオホウスを派遣
オホウス、國造の娘エヒメ/オトヒメを見初め独断で婚姻 
→押黒のエヒコ/押黒のオトヒコ誕生 
オホウス、偽って他の女を景行に献上 
景行、女が別人であることを知り、宮に入れるも婚せずに苦しめる 

景行
元年
2年




3年


4年

































9年
(太歳辛未の年)
秋7/11 オホタラシヒコ(景行)、天皇になり年号改正
春3/3 播磨のイナヒ大郎女(別名 稲日のワキイラツメ)、皇后になる
    景行皇后の難産
    →オホウス/ヲウス(別名 ヤマトオグナ/ヤマトタケル)の双児

   (/ワカヤマトネコ)誕生
    景行、双児の誕生を怪しみ、臼に唸る→双児の名の由来
春2/1 景行、紀伊国にて神祗に祭祀→不吉と出る 紀伊行幸を中止
ヤヌシオシヲタケヲゴコロ(別名 タケイココロ)派遣され、神を祭る
タケヲゴコロ、阿備の柏原に住み神を祭る
春2/11  景行の美濃巡幸
     景行、祟神の孫オトヒメを探し、オトヒメ、竹林に隠れる
     景行、ヒメ探索のため泳宮(岐阜県可児郡?)に入る
     オトヒメ、宮を見に現れ「私より姉を妃にするべき」と提案
景行、オトヒメの提案を受け入れ姉の八坂のイリビメと結婚
 →ワカタラシヒコ/五百城のイリビコ/オシノワケ/ワカヤマトネコ
 /オホスワケ/ヌノシノヒメミコ/ヌナキノヒメミコ
 /五百城イリビメ/カゴヨリヒメ/五十狭イリビコ/キビノエヒコ
 /高城イリビメ/オトヒメ誕生









景行、三尾のミヅハ郎女と結婚
 →イホノヒメミコ/イカハヒメ/カムクシ/稲背のイリビコ誕生
景行、阿倍のタカダヒメと結婚→タケクニコリワケ誕生
景行、日向のカミナガオホタネと結婚→日向ソツビコ誕生
景行、ソノタケヒメと結婚
 →クニチワケ/クニソワケ
(別名ミヤヂワケ)/トヨトワケ誕生
景行、全てで80子を生む
ヤマトタケル/ワカタラシヒコ/五百城イリビコを除く70人の皇子、国郡に封じられる
 →各「〜ワケ」の名に因み別(ワケ)制度の語源に

是の月 景行、美濃の美女の評判を聞きオホウスを派遣
   オホウス、国造の娘エトホコ/オトトホコの所へ密かに通い復命せず



冬11/1 景行、美濃より帰還 纏向に遷都(日代宮/桜井市穴師)
タケヲゴコロ、紀直の祖カゲヒメと結婚→タケウチ宿禰誕生







  12年




































13年



17年


18年



























19年
秋7月 クマソ、朝貢せず反抗
8/15 景行、筑紫行幸に出発
9/5 景行、周芳の娑波(山口県防府市佐波?)に至る
   景行、南方に煙を認めタケモロキ・ウナテ・ナツハナを派遣
   首長カムナツソヒメ、使者を迎え周辺の賊討伐を訴える
   「菟狭のハナタリ、御木(福岡県築上郡)のミミタリ、
   高羽(田川郡)のアサハギ、緑野(北九州市の蒲生川?)のツチヲリイタリ
   この4人の賊を倒すべきです」
タケモロキ等、珍しい品々で賊を誘き出し強襲して殺害
景行、筑紫の豊前国長峡県に仮宮を造営→京(ミヤコ/福岡県京都郡)の語源
冬10月 景行、碩田国(大分県大分市)に至る
    →この地の大きく広く麗しい所から碩田(オホキタ)の由来に
    景行、速見邑(大分県速見郡)に至る
    首長ハヤツヒメ、景行を迎え周辺の土蜘蛛討伐を訴える
    「石窟のアヲとシロ、禰疑野(大分県竹田市菅生?)の
    ウチサルとヤタとクニマロは抵抗するでしょう」
    景行、来田見邑(直入郡〜大分郡庄内町?)に仮宮を造営
    景行、土蜘蛛討伐を宣言し椿製の武器を製造
     →海石榴市の語源
景行軍、石窟を強襲し稲葉の川上(飛田川)に敵軍を追い込み殺害
 →血田の語源
景行軍、禰疑山に進軍 ウチサル軍、弓矢で応戦
景行軍、城原に撤退し占いによって軍を再編
禰疑野の戦い ヤタ軍壊滅しウチサル、降伏するも谷に落ち死亡
景行軍、柏峡の大野(大分県直入郡萩町?)に進軍
 景行、野中の大石に祈い
 「土蜘蛛討伐ができるなら、この石を柏葉の如く蹴り飛ばせるだろう」
 →成功 石を蹈石と名づけ、志我神・直入物部神・直入中臣神を祭る
11月 景行、日向国に至り仮宮(高屋宮)を造営
12/5 景行の詔「襲国にアツカヤ・サカヤと言うクマソの勇武者がいると聞く
        従う郡民をクマノのヤソタケルと言い数多し
        開戦すれば只では済むまい。どうしたものか」
   1人の臣「クマソタケルの娘姉妹イチフカヤとイチカヤを味方に」と提案
景行、姉妹に貨幣を与えて召し入れる
イチフカヤ、一計を案じ、酔った父を景行軍に殺させる
景行、イチフカヤの不孝を憎み誅殺
景行、妹のイチカヤを火国造に定める
夏5月 景行、襲国(鹿児島県曽於郡西部〜国分市)を平定
   景行が高屋宮に住む事6年になる(?)
景行、襲国のミハカシヒメと結婚
 →トヨクニワケ誕生
3/12 景行、子湯県(宮崎県児湯郡)丹裳小野に遊行
   東方を望み「まっすぐ日の出ずる国だ」→日向の語源
   景行、さらに野中の大石に上り歌詠み→思邦歌の起源
春3月 景行軍、京を目指し筑紫巡幸 夷守(宮崎県小林市辺り)へ至る
    石瀬河(岩瀬川?)で首長エヒナモリ・オトヒナモリの報告
   「諸県(宮崎県東諸県郡〜鹿児島県曽於郡)の首長イズミヒメの
   食品献上で集結した」
夏4/3 景行軍、熊県(熊本県球磨郡)に至る
    景行、クマツヒコ兄弟を召集→兄エクマのみ参向
    景行、弟オトクマを誅殺
4/11 景行軍、海路を渡り葦北の小島(熊本県北郡・水俣市)に停泊
    景行、山部アビコに水を求める
    アビコ、水のない島内で神に祈り湧水を得る→水嶋(八代市)の語源
5/1 景行軍、海路を進み火国に至るも日没後で停泊できず
   景行、遠くに現れた火(=不知火)を頼りに岸に漂着
   景行、八代県の豊村(熊本県松橋町)に至り、海の火が人の物でない事を知る
   →火国の語源
6/3 景行軍、高来県(島原半島基部)より玉杵名邑(熊本県玉名郡)に渡航
   景行軍、渡航中に土蜘蛛ツツラを殺害
6/16 景行軍、阿蘇国(熊本県阿蘇郡)に至る
   景行が人を訪ねると、アソツヒコ・アソツヒメの2神出現
   →阿蘇の語源
7/4 景行軍、筑紫後国の御木(福岡県大牟田市)の高田仮宮に到着
   景行、倒れた巨木を発見
   老夫「これはクヌギ。昔は朝日で杵嶋山を、夕日で阿蘇山を隠した」
   →神木に因み御木国と命名
7/7 景行、八女県(福岡県八女郡)に至り藤山(久留米市藤山?)を越え南の粟岬へ
   水沼サルオホミ「山にヤメツヒメと言う女神がいます」
   →八女国の語源
8月 景行軍、的邑(福岡県浮羽郡東部)に至り食事
   膳夫、酒杯(ウキ)を置き忘れる→浮羽(訛って的[イクハ])の語源
秋9/20 景行、日向から大和へ帰還

景行、田部・東の淡水門・膳の大伴部・倭の屯家を定める
景行、坂手池(磯城郡)を造営し竹を植林





景行、朝夕の食事会でオホウス欠席を疑い、ヲウスに様子を探らせる
翌朝 ヲウス、厠に入ったオホウスを組み伏せ腕を引き抜き投げ棄てる
5日後 景行、ヲウスの報を聞きヲウスを恐れる
    「西方の反逆の者クマソタケル2人を討伐せよ」


ヲウス、伯母ヤマトヒメより衣裳・剣を賜る
久米直の祖ナナツカハギ、膳夫(=料理人)としてヲウスに従事
ヲウス、熊曾に到着
熊曾軍、新築落城の酒宴を準備中
ヲウス、童女に変装し宴に紛れ、クマソタケル兄弟に気に入られる
ヲウス、隙を見て兄タケルを刺殺 弟タケル逃亡
ヲウス、弟タケルを階下に追い詰め刺殺
弟タケル「我々よりも強いお前は、今日からヤマトタケル御子と名のれ」 


ヤマトタケル、熊曾からの帰還中に山・河・穴戸(海峡)の神を言向け
ヤマトタケル、出雲に至り出雲タケルを殺そうとするも逆に友となる
ヤマトタケル、木刀を帯びて出雲タケルと共に肥河(斐伊川)で沐浴 
ヤマトタケル、出雲タケルの刀をとり剣試合を申し込み、出雲タケルを刺殺 

ヤマトタケル帰還

景行、さらにヲウスに詔命「東方十二道の荒ぶる神・伏はぬ人を討伐せよ」


ヲウス、吉備臣の祖ミスキトモミミタケヒコと柊製の八尋矛を賜る


ヲウス、伊勢に赴きヤマトヒメに涕泣
「西方帰還からすぐに軍衆も賜らず東方平定せよとは、死ねと言うのか」 
ヤマトヒメ、ヲウスを慰め草薙剣・袋1つを与える
「なにかあれば、この袋を開けなさい」 
ヲウス、尾張國に至り國造の祖ミヤズヒメの家に泊まる
帰還時に結婚することを契り東國へ 
東國の山河の荒ぶる神・伏わぬ人等を平定
ヲウス、相武國に至り國造の報告を受け「道速振る神」のいると言う野へ
國造、野に放火しヲウスの焼死を謀る 
ヲウス、ヤマトヒメの袋から火打を見つけ、向かえ火で火を防ぐ 

ヲウス、國造を斬殺→焼道の語源 


ヲウス、走水(浦賀水道)に至るも神浪によって渡航不可
ヲウスの后オトタチバナヒメ、自ら入水し波を静める 
7日後 オトタチバナの櫛、海辺に漂着 櫛をとって御陵を造営





ヲウス、さらに東へ赴き荒ぶる蝦夷・山河の神を平定し帰還


ヲウス、足柄の坂本(神奈川県足柄山)にて白鹿(=坂の神)と出会う
ヲウス、蒜(百合科の植物)で目をつぶし殺害 

ヲウス、坂を上り妻オトタチバナを嘆く→阿豆麻(=東国)の語源 

ヲウス、甲斐の酒折宮(甲府東方)に坐し饗宴
→相手の老人を誉め國造に任命
ヲウス、科野國(長野県)を越え科野の坂神を言向け





ヲウス、尾張國に戻りミヤズヒメと結婚
ヲウス、草薙剣をヒメの元に置いて伊吹の山へ 
ヲウス、山辺で白猪(伊吹の神)と会うも「神の使いは今は殺さぬ」 
大氷雨降りヤマトタケル正気を失う(神の呪) 
ヤマトタケル、玉倉部の清水に至り回復→居寝の清水の語源 


ヲウス、當藝野に至り「私の足はたぎたぎしく(はかどらなく)なった」
→當藝(タギ/岐阜県養老郡)の語源 
ヲウス、杖をつき始める→杖衝(ツエツキ/三重県三重郡)の語源 
ヲウス、尾津の前(三重県桑名郡)の松で失った刀を発見
ヲウス、三重村(三重郡)に至り「三重の曲がり道のように疲れた」
→三重の語源 
ヲウス、能煩野(三重県鈴鹿郡)に至り歌詠み→國思ひ歌・片歌の起源
ヲウス、危篤状態に 


大和の親族、知らせを聞き集合 ヲウス崩御 
なづき田に御陵を造り埋葬 
ヲウスの魂、八尋白智鳥となり浜へ飛翔 
親族たち、歌詠みをしながら追跡→天皇の大御葬の歌の起源 
白鳥、河内國志幾(大阪府南河内郡)に降り立つ 
→白鳥の御陵をそこに造設
白鳥、さらに天へ飛翔 














ヤマトタケル、垂仁の娘布多遅のイリビメと結婚
→タラシナカツヒコ誕生

タラシナカツヒコ、皇位を継ぐ


ヤマトタケル、オトタチバナヒメと結婚
→ワカタケル王誕生 
ヤマトタケル、近つ淡海の安國造の祖フタヂヒメと結婚
→イナヨリワケ誕生 
ヤマトタケル、吉備臣オホキビタケヒメと結婚
→タケカヒコ誕生 
ヤマトタケル、山代のククマモリヒメと結婚
→アシカガミワケ誕生 
ヤマトタケル、ある妻と結婚
→オキナガタワケ誕生 
オキナガタワケからクヒマタナガヒコ誕生 
クヒマタナガヒコからイヒノマグロヒメ/オキナガマワカナカツヒメ
/オトヒメ誕生 
ワカタケル王、イヒノマグロヒメと結婚
→スメイロオホナカツヒコ王誕生 
スメイロオホナカツヒコ、淡海のシバノヒメと結婚
→カグルヒメ誕生 
景行、カグルヒメと結婚
→オホエ王誕生 
オホエ王、伯母シロガネ王と結婚
→オホナガタ/オホナカツヒメ誕生 
オホナカツヒメ、カゴサカ王・オシクマ王を産む





















景行、137歳で崩御 山邊の道の上(奈良県磯城郡)に埋葬


20年
25年
27年























28年
40年



















































43年

















46年
50?





51年

































52年

53年




54年
55年




56年




57年

58年
60年


春2/4 イホノ皇女、伊勢に派遣されアマテラスを祭る
秋7/3 景行、タケシウチ宿禰を北陸・東方へ派遣しその様子を探る
春2/12 タケシウチ宿禰帰還
    「東に日高見国あり。エミシから奪い取るべし」
秋8月 クマソ、再度反抗



冬10/13 景行、16才のヤマトタケルにクマソ討伐を命令
     タケル、葛城ミヤトヒコを派遣し美野国のオトヒコを召集
     オトヒコ、石占ヨコタチ・尾張タゴ稲置・チヂカ稲置と共に従軍


12月 ヤマトタケル軍、熊襲国に到着
   クマソタケルのトロシカヤとカハカミタケル、新築落城の宴
   タケル、童女に扮し宴に紛れ、カハカミタケルに気に入られる
   タケル、隙を見てカハカミタケルを刺殺
   カハカミタケル、死の間際に自らの名をタケルに与える
   →ヤマトタケルの名の誕生
   オトヒコ軍、クマソ残党を討伐し全滅させる
ヤマトタケル軍、帰路へ
 ヤマトタケル、吉備の穴海を渡航中に荒ぶる神を殺害



 ヤマトタケル、難波の柏済(大阪市淀川河口)の荒ぶる神を殺害
春2/1 ヤマトタケル、景行にクマソ平定を報告
夏6月 東夷反抗始まる
秋7/16 景行の詔「東国に暴神多し。誰かこれを平定せよ」
    ヤマトタケル、兄オホウスを推薦→オホウス、逃亡
景行、オホウスが召集しないのを見て、オホウスを美濃に封じる
ヤマトタケル、東国平定に立候補し景行、これを承認
 景行、タケルに吉備タケヒコ/大伴タケヒ/膳夫のナナツカハギを従軍させる
冬10/2 ヤマトタケル軍出立
10/7 ヤマトタケル、伊勢に寄る

   ヤマトヒメ、タケルを迎え草薙剣を授ける

ヤマトタケル、尾張の尾津浜で剣を置き忘れる


ヤマトタケル軍、駿河(静岡県中部)に至り賊から勧められ鹿狩りの野へ
 賊、野に放火しタケルの焼死を謀る
 タケル、向かえ火で火を防ぐ
 (または叢雲剣で草を薙いで火を防ぐ→草薙剣の語源)
 タケル、賊を焚刑に処す→焼津(静岡県焼津市)の語源
ヤマトタケル軍、相模(神奈川県中西部)に至る
「小さな海だ、駆け飛んで渡れるだろう」
 →暴風発生し、船での渡航不可
 タケルの妾オトタチバナ、波に入り暴風を鎮める

ヤマトタケル軍、上総に漂着→馳水(浦賀水道)の語源
ヤマトタケル軍、上総より陸奥国(東北地方東半部)へ入る
タケル、船に大鏡を掛けて葦浦〜玉浦に至る
 エミシ首長・島の神々、竹水門で迎え撃つも船鏡の威光を恐れ戦闘不能に
 タケル、エミシを服従させ帰服させる
 ヤマトタケル、エミシ平定
ヤマトタケル軍、日高見国から西南の常陸・甲斐に至り酒折宮(甲府市)に入る
 タケル、照明係の老人を褒め褒賞を、大伴タケヒに靫部の位を与える


ヤマトタケル軍、甲斐より北部の武蔵〜上野・碓日坂(群馬県碓氷坂)に至る
 タケル、碓日嶺に登りオトタチバナを嘆く→吾妻国の語源
ヤマトタケル、吉備タケヒコを越国へ派遣


ヤマトタケル軍、信濃へ入り山々を巡る
 タケル、信濃坂にて白鹿(山の神)と出会う
 タケル、一箇蒜(にんにく)で目をつぶし殺害
  →人を害する神気を、蒜で避ける起源
 ヤマトタケル、突然道に迷う→白狗現れタケルを導く
 吉備タケヒコ、越より出てヤマトタケル軍と合流
ヤマトタケル、尾張に帰還し、尾張のミヤスヒメと婚姻
タケル、荒ぶる神平定のため、剣を置いて近江の五十葺山(=伊吹山)へ
 タケル、大蛇(山の神)と会うも「神の使いは今は殺さぬ」
 雲起こり氷降る→タケル、山に迷い正気を失う(神の呪)
 タケル、山下の泉で回復し尾張に帰還→居醒泉の語源
 タケル、ヒメの元に戻らず伊勢・尾津(三重県多度町?)に移動
ヤマトタケル、先に置き忘れた剣を見つける






ヤマトタケル軍、能褒野(三重県鈴鹿市〜亀山市)に至り、タケルの病悪化

タケル、捕虜のエミシを伊勢神宮に献上
タケル、吉備タケヒコを景行の元へ派遣
 →ヤマトタケル、30歳で崩御(計算上は32歳)
景行、ヲウスの死を大いに嘆く→詔して伊勢国能褒野陵(白鳥陵)造営
ヤマトタケルの魂、白鳥となって倭国(大和)へ飛び立つ
白鳥、倭の琴弾原(奈良県御所市)に降りる→白鳥陵を造る
白鳥、さらに飛んで河内の旧市邑()に降りる
→白鳥陵を造る
白鳥、ついに天へ飛び立つ
景行、ヤマトタケルに因み武部を制定
ワカタラシヒコ、24歳で皇太子に(成務期の記述)
草薙横刀を尾張の熱田社へ移動させる
伊勢のエミシ、昼夜なく騒ぎ民衆を混乱させる
 ヤマトヒメ、エミシを遠ざけようと朝廷に献上
 景行、エミシを御諸山の麓に
 エミシ、神山の樹を伐り里を騒がす
 景行、エミシを幾外へ配置させる→5国の佐伯部の祖となる
春1/7 景行、諸候を集め饗宴(後の白馬節会)
    ワカタラシヒコとタケシウチ宿禰、参向せず
景行、2人にわけを問うと「非常時に備え警備していた」
 →景行、これを褒め2人を寵愛する
秋8/4 ワカタラシヒコ、皇太子に
    タケシウチ宿禰、棟梁之臣(=大臣)となる
ヤマトタケル、両道イリビメ(垂仁皇女)と結婚
 →イナヨリワケ王/タラシナカツヒコ/ヌノシイリビメ
 /ワカタケ王誕生

ヤマトタケル、吉備穴戸タケヒメと結婚
 →タケカヒコ王/トヲキワケ王誕生
ヤマトタケル、穂積のオトタチバナヒメと結婚
 →ワカタケヒコ王誕生




















夏5/4 皇后オホイラツメ崩御
秋7/7 八坂イリヒメ、新たに景行皇后に
秋8月 景行の詔「ヲウスを偲び東国を巡ろう」
景行、伊勢から東国へ
冬10月 景行、上総国に至り淡水門(房総半島南端)を渡る
    景行、覚賀鳥(=ミサゴ)を探し蛤を得る
    イハカムツカリ、蛤を料理して献上
    景行、ムツカリの腕を褒め、膳大伴部とする
12月 景行、東国より帰還 伊勢の綺宮(三重県鈴鹿市?)に入る
秋9/19 景行、倭(ヤマト)へ帰還 纏向宮に入る
春2/5 景行、ヒコサシマ王を東山道15国の都督に任じる
ヒコサシマ、東国に向かう途中、春日の穴咋邑(奈良県古市?)で病死
東国の人々、死体を盗み上野国に埋葬
秋8月 景行、ミモロワケ王に詔「父ヒコサシマの任を継ぎ東国を治めよ」
ミモロワケ、東国に赴き統治開始
エミシの反乱→ミモロワケ挙兵し応戦
 エミシ首長アシフリベ/オホフリベ/トホツクラヲベ等、降伏
 ミモロワケ、なお抵抗するエミシを誅殺し平定
秋9月 景行、坂手池(奈良県磯城郡田原本町)を造営し竹を植える
冬10月 景行、諸国に発令し田部屯倉(=直轄領)を造る
春2/11 景行の近江巡幸 3年間志賀の高穴穂宮(滋賀県大津市)に入る
冬11/7 景行、106歳で崩御(計算上は143歳)



ワカタラシヒコ(=成務)、近つ淡海志賀の高穴穂宮(滋賀県大津)に坐す


成務、穂積臣のオトタカラ郎女と結婚
→ワカヌケ王誕生 


成務、タケウチ宿禰を大臣に任じ大國小國の國造を定める
成務、國々の境/大縣小縣の縣主を制定

乙卯の年3/15 成務、95歳で崩御
崩御の同日に沙紀の多他那美(奈良県生駒郡)に埋葬 
成務
元年
2年



3年
4年
5年

48年
60年
61年
(太歳辛未の年)
春1/5 ワカタラシヒコ、天皇となる(成務天皇)
冬11/10 景行を倭国山辺道上陵(奈良県天理市)に埋葬
     八坂イリビメ、皇太后に


春1/7 タケシウチ宿禰、大臣となり特に寵愛される
春2月 成務の詔「新たな世の争乱を防ぐため、国長/県首を置こう」
9月 成務、諸国に発令し国造/稲置(=県主)を設置
   国県の境を定める
春3月 甥のタラシナカツヒコ、(31歳で/仲哀期の記述)皇太子になる
夏6/11 成務、107歳で崩御(計算上は98歳)
秋9/6 倭国狭城盾列陵(奈良市陵町)に成務を埋葬
仲哀朝へ